「配役に不満あり」

規則と実態の関係を「合う/合わない」という基準で判定していいのかどうか、そこがまずちょっと気になるけれど、

とりあえず、規則と実態を関係づける昭和の有力な手法が「役割を演じる」というものだったのではないか。地位が人を作る、とか、最近でいうと、内田樹の先生擁護論で採用された、教壇に立てば誰でも先生として機能する、というのもこれだろう。

ただし、馴れない役を演じるのは照れくさいところがあって、そういう人のために、マンガのようなサブカルチャーは、ひとつのキャラクターが状況に応じて劇画調の八頭身になったり、ギャグマンガ調の二頭身になったりするモード・チェンジ、トランスフォーメーションを提案した、と見ればいいのかもしれない。

(ひところの社会科学風のテレビ論、お笑い論は、単なるモード・チェンジが起きているに過ぎない局面で、一方をベタ、他方をメタと深読みしながらひどく立派な物言いを流行らせたように思うが、あれはちょっとやり過ぎなところがあったよね。)

で、自由自在に変形しながら状況をビシバシと裁いていくキャラクターたちに囲まれていると、「役を演じること」そのものへの懐疑が生まれて、人型戦闘兵器はケダモノであり、シンクロ率を高めると取り込まれて自我が崩壊しちゃうよ、「役を演じる」のは恐ろしくて、野蛮で、人類存亡の危機で、逃げちゃいたくなることなんだよ、という子ども向け都市伝説みたいなものが出てきた。

(写真が日本へ渡来したときに、「魂を吸い取られるぞ」と怖れられた話にちょっと似ている。)

ここに不足しているのは、コミュニケーション論やメディア論やアイデンティティ論といった社会科学の知ではなく、演技とは何か、みたいな、細々とではあれ人文科学の片隅に伝承されているような気がする儀礼と演劇に関する知と経験なのではなかろうか。

(ちょっと山崎正和が入った「音楽演劇学専攻」の我田引水かもしれないが、オレ目線で言い換えれば、振られた「役」に不満があるときはどうするか、劇団の役者さんたちの生態なんかを思い浮かべればいいんじゃないかな。ロールモデルとしての大部屋俳優、みたいな啓発本を書くもよし。……というか、まさしくそういうノリで、今、東映関係の本が好評なんじゃないか。)