虚しい親分肌を捨てること(そして人知れぬ人文の敗北)

「JR西日本、今度のはなかなかよかった」説、どうもストレートには納得できないので、もう少し書く。

東京の官庁的には、新しい統治理論にもとづく処置で、いきなり首都圏で実戦投入するのは恐いから関西を実験台にしたってことでしょ? ウチら、モルモット扱いやん(笑)。そこは、アホか、いうて怒ってエエとこやで。

[全員右に倣え、みたいな世の中では人文は死ぬ、そんなん、あかんって、あんたら、(安全な弊の陰からだけど)いっつも言ってたんとちゃうのん。肝心なときに、みんな右に倣えを整然とできたのがよかった、家族も安心、とか、何を雑駁なこというとりまんねん。まあ、人文人文としか言わないセンセは、どうせヘタレだろうと普段から思ってはいたけれど(笑)。

それにさあ、あんたは家で安楽で、被害のないこと祈れば済んだかもしらんけど、被害がでるところには出たじゃん。今回おいでになったのは、ひとかどの台風さんだったじゃないですか。人文の人なんだったら、ちゃんと、テクストとしての台風に向きあって、その魂を唯物論的に擁護しなきゃだめよ(笑)。

「死」を扱うことができないがゆえに「台風」を扱うこともできない、みたいなスコラ的三段論法で次から次へと撤退するのはジリ貧であり、ラッキョウの皮むきのようになってしまうのではないか。魂とは、もっとみっともなくジタバタ悪あがきするものじゃないかと思うぞ。アズマンを見よ、この人を見よ、だ。]

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監督は死んでしまったが、工藤夕貴は今どこで何をしているのか……。

しかも、単なる結果オーライじゃん。

何が起きたかというと、広域をカヴァーしていて、いまだに漠然と「親方日の丸」「寄らば大樹」的にインフラとしての頼られ感のあるデカいところが、今回はリアルに、「ウチはデカすぎて、その場で臨機応変な対応いわれても、ブレーキとアクセルを細かく踏み分けるとか、無理でんねん、でけへんことはできまへん」と早々に降参した形になったわけだ。

そして、だったらしゃあないなあ、家で家族サービスでもしときましょ、と思った人もいるし、太陽が消えると裏の星がよくみえるように、「ウチは小回りが効くから、もうちょっと踏ん張りますわ」というところの存在がくっきり見えてきた。私鉄とかね。太陽の女神さんがお隠れになったところで、ストリップダンサーとか相撲取りとか、なんか妙な声で鳴く鳥とかに活躍の場が回ってきたわけだ(←大栗裕!「天の岩屋戸の物語」!!)

リスク(しかも今回のは自然の猛威なので、影響があるのかないのか、どのくらいなのかすら不定)を、どこかでだれかが、できもせんのに一手に引き受けるのでなく、あっちこっちにリスクが散ったわけだ。

お店屋さんなんかも、巨大ショッピング街とかは閉めちゃったりして、街へ出て行くことすら「自己責任」感満点で、リスクを個人レヴェルで負うしかない側面もくっきり見えた。

よかったことがあるとしたら、そういう風な、虚構の信頼を取っ払ったリアル感を演出したことじゃないのかな。

虚構を取っ払ったリアルは、進め火の玉一億玉砕、みたいにハイテンションではなく、白々と開けた状態なのよ。

(東京が東独の超ベテラン演出家の仕掛けで舞台上にその種の白々と開けるリアルを出現させた同じ時期に、関西で結果オーライでこういうことになったのは、偶然だがちょっと面白いね。)

[音楽業界だって一緒でね。一丸となって難局を乗り切る、とか思ってたら事態はどんどん悪化するわな。

音楽ファンと呼ばれるクラスタ(←ここぞとばかりにこの言葉使うよ)は中毒を多少は含んでいて、「音楽がないと禁断症状が出るの、有名音楽家の名前や情報を見ると、それだけで頭のなかに素晴らしい演奏が思い浮かんで感動しちゃう、お金払ってコンサートへ行くのは、この症状をまぎらすためなの」みたいなのが大なり小なり入っている。アンフォルタスの血で聖杯が輝かないとパワーが落ちる人たちですわ。(チェリとかカルロスとかなんとか、聖人たちの名前を唱えるのがお勤め。)東京でマニアックなコンサートがあるのは、巨大都市になるとその種の中毒患者もまた、それなりの数存在するということだと思われますが、関西はさすがにそこまでではなくて、だからまあ、1000人以下のサイズに収容しとけばええのよ。それは、現実に即して、なかったら困る人は困ってしまうような、ひとかどの社会施設ではある。胸張って運営すればよろしい。

一方でしかし、中毒症状とは別に、音楽イベントに用途や需要はそれなりにあるのよ、実は。

兵庫や京都や滋賀で自治体のやってる事業が賑わってるのは、まさか、中毒患者のサナトリウムではない。おばあちゃんのお財布の鈴が後ろの席でチリンチリンと鳴るのが聞こえてきたり、「拍手はこういう風にしましょうね」と手取り足取り、遊び方のガイドをしてもらいながらのドキドキ体験だったりしながら行ってみたら、案外よかった、「これええわあ、また次も来るからね」って感じの楽しみ方を、できるんだったらしてみたいと思っている人の数は、案外少なくない、ということだと思う。

大阪の街中だったら、大きい声では言えないかもしれないけれど、スポンサー関係でチケット回ってきたから、とりあえず最初のほうだけ行っとくわ、とか、そういう「おつきあい」がありますやんか。それも賑わいのうちだ。好きでもない酒を飲んで、やりたくもない「芸」を披露させられたり、誰も手をつけない料理が寂しくテーブルで冷めていく立食パーティなどやるくらいなら、音楽でも聴きに行ったほうが、よっぽと後腐れもなく、上等ですがな。

(まあ言えば、それが往年の「朝比奈の力の源泉」のひとつだったわけですよね。)

台風一過、「とりあえず、そういうことでいっときましょ」な感じが、くっきり見えてきたように思うです。維新・改革・変わらなきゃ、とか、青二才にガアガアがなり立てられるより、ずっと暮らしやすい気がするよ。]