大学というテーマパークを前にして言葉が空転しているのは誰か?

最近の日本はバックヤードが外側に露出している施設が多い。金払って「中」に入るとキラキラだけど、「外側」はコンクリート打ちっ放しで、資材が無粋に並んでたり、とか、そんな感じ。

というようなことをひと頃(今も)東浩紀が言っていた(いる)ように思うのだけど、役人さんのジャンキーな作文がネット上に転がってる状況は、まさにそういうことなのかもしれませんね。

で、そのゴミみたいな作文のなかにGだのLだのと書いてあるといって大学の先生たちが怒っているようだが、しかし、バックヤードはそんなもんでしょ。

イベントのバックヤードは、思慮がなく小生意気で猪突猛進な連中がうろちょろしてるもんです。いつの時代でも、たいてい、そこはそういうところですよ。

躾のできている芸事の世界だったら、舞台の表でも裏でも、指揮者やソリストの「先生」の前ではみんな、ピシっと背筋が伸びる。(大阪フィルは、今でもそういう感じっすよ。そこは偉いものだといつも思う。客席からはっきりそれがわかるのは、配置転換のときだ。裏がちゃんとしてないと、あれは必ずダラけるか、アタフタする。)

でも、裏へ回ったら舞台監督がダラっとして、営業のお姉ちゃんと雑談してる。しかも、その雑談が廊下を通った出演者に丸聞こえになっていて、とってもイヤーな感じ。そういう文字通りの「裏表」のあるクラシック音楽テーマパークが、今は残念ながら存在します。

そしてこれは、

LだのGだの、というのをみつけて、それが外から丸見えだからといって、いきなり路上でバックヤードの従業員とケンカしても、その施設の運営上、痛くもかゆくもないような構造が盤石にできあがりつつある

ということでもあると思う。

「中」でプレイヤーとして圧倒的なパフォーマンスを発揮して、小賢しいテーマパークを抜き去り、突き抜けてしまうもよし。

バックヤードに潜入してハッキングするもよし。(今では、バックヤードが外から丸見えなので、もはや「潜入」の語が適さない衆人環視状態、オープンソースな感じであることを利用できる才覚があれば、これもまた面白かろう。)

ギャラリーとして路上観察するもよし。

丸見えなんだから、丸見えなオノレを教材として後進に何かを教えるしかないんでしょう。

(「特攻隊」説は、近づくな、入るな、と非国民をすすめるならいいんだけど、そう言ってる当人が次の日には「中」で軍歌うたっちゃったりしていると、「結局オトナは汚い」みたいな話になるから、大丈夫なのかってことではあるよな。

「演歌」の話も、五木寛之はウザいけどレコード歌謡・流行歌としての演歌を私はこれからも愛していきたい、というあの本の結びの言葉でおわっちゃったら、結局はテーマパーク肯定論だからね。

しつこいようだが、私はそこに、嘘や故意の言い落としや言い逃れ、逃げ切り、みたいな姿勢がある気がして、それが嫌なんです。現状についての「読み」が浅い感じがする。人文だろ、しっかり読め、と思ってしまうのです。

テーマパークの前で言葉が空転するのだとしたら、ポピュラー音楽研究者は、今こそ自らの状態を鏡に映して「あの頃」とどこが同じでどこが違うか、ちゃんと言葉にしなきゃいけない。私は、「あの頃」と同じじゃない部分がものすごく多いのに、同じであるかのように見える部分ばっかり反芻しているオノレの姿が浮かび上がるのではないかと思っているのだけれど……。つまりは、言葉のあり方や速射のスピード感とかが、「ネトウヨさん」(ゆっくりと、さん付けしてテンポをズラそう!)とほとんど一緒で、そんなところに「同時代性」を確保してどうするか、みたいな状態になっているような気がする。お前らポピュラー、ポピュラーいうくせに、20世紀の大衆宣伝の研究とか、まっとうに勉強してないだろう。)

日本の軍歌 国民的音楽の歴史 (幻冬舎新書)

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