楽音・雑音・声……どれが「美しい」のかしら

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20141031/p1

↑の続きをつらつら考えています。

おそらく倍音仮説が19世紀の段階で有力に思えたのは、「楽音」と「雑音」の区別をうまく説明できそうに見えたからなんじゃないかと思うわけです。

で、倍音仮説で機能和声を「自然法則」として裏打ちしようとする目論見は無理筋だろうということで大筋の合意が得られていると思うのですが、

「楽音」と「雑音」の区別のほうは、だったら人の耳は「言葉(を話す声)」をどのように聴いているのか、「うた」の場合はどうなのか、ということになると思う。ある意味、「言葉(を話す声)」は、倍音仮説ではうまく説明できない種類の「ノイズ成分」が命だと思われますから……。

で、脳は言語の知覚と音楽の知覚をどこでどうやっているのか、という話になるのでしょうが、私はこの話はよく知らない。

それとは別に、音楽美とは何か、という議論がありますけれども、人の声(歌う声であれ話し声であれ)を美しい、とみなす場合があるのはどういう理路によるのか、というのが気になる。

声の魅惑 enchantment は、古典・ロマン主義美学で言う音楽美(楽音で構成された作品の美)とは別立てになりそうですよね。

そして「○○さんのヴァイオリンの音は本当に美しい」と目を輝かせながら言う、というのは、往年の「絶対音楽」の議論(器楽作品の美こそが本来の音楽美だ、というような信念)とは真逆で、器楽作品というか器楽演奏を声楽と区別せず、その魅惑のみに着目して語っているように見えるし、もっと言えば、これはもう、ほとんど「人体の美」(美人論)の聴覚ヴァージョンなのではないか。

美人の歴史

美人の歴史

「3度の響きの快さ」とか、「感情の言語としての音楽」というルネサンスからロココくらいまでの音楽をめぐる議論も、たぶんこっちですよね。

19世紀に俄然有力になる音楽作品の美という理念は、古典的な佇まいであれ、ロマンティックに彼岸を指し示す振る舞いであれ、モダンな「鳴り響きつつ動く形式」であれ、やっぱり知識人向けであり過ぎるのかもしれない。

まあしかし、「人体の美」をめぐる議論も、現代に近づくにつれてどんどんややこしくなって、一定の規範に照らして各人の美人度が判定できる、というような楽天的な話ではなくなっているようだから、

やっぱり、モーツァルトの演奏を2時間聴いた結論として出てくる感想が

「ヴァイオリンの音がきれいでした(おわり)」

だとしたら、これは美人論のほうから考えても、音楽美のほうから考えても、バカっぽい、と言わざるを得ない。

エステ(美容)がエステティクス(美学)より低級だ、とはまったく思わないし、音楽をエステっぽい態度で論評するのは一向にかまわないと思うけれど、やるならやるで真剣にやってくれ、と思う。

「このヴァイオリンの音は美しい」と言うときは、美人コンテストは是か非か、とか、美人は外見だけの話なのか、というような議論と同じ水準で、よく吟味してからにして欲しい。

(たとえばモーツァルトは、音を磨いたり効果を追い求めていくだけだと、どんどん過剰で嫌らしくなる、と私には思える。場合によっては、その種の嫌らしさが爛熟したロココになる場合があるかもしれないけれど、善人ぶって「きれい」に弾くのは、全然きれいじゃないと私は思う。)