1969年秋

今頃なぜか、全共闘を調べている。

全共闘の学園紛争は安田講堂占拠→機動隊突入の1969年1月がピークでありシンポルである、という語られ方をするように思うのだが、この出来事が大々的に報じられたのち、

「全共闘運動は、数では六九年がピークだった」

ということになるらしい(小熊英二『1968 下 叛乱の終焉とその遺産』新曜社、117頁)。

大栗裕が1969年末の作品に関して次のようなことを書いているので、どういうことかと思ったら、関西の大学教員は、1969年秋に「初めての経験」をすることになったようだ。日本は広い。東京の最高学府が決着しても、そこで終わりじゃなかったようです。

アート弦楽四重奏団演奏会
1969年12月5日(金)毎日国際サロン

弦楽四重奏曲によせて 大栗裕

今日発表させていただく作品は、私としては初めて書いた弦楽四重奏である。関響時代からの尊敬すべき友人であり、現在でもヴァイオリンの優秀な技術の持主として知られている小杉さんから、書いてみないかと誘惑されたのが、僅か残暑きびしい本年の8月も末だったろうか。以来、毎日、毎夜「弦楽四重奏曲」という亡霊に悩まされ続けて、最終楽章が出来上がったのが11月半ば、その間、勤務先の大学がご多聞に漏れない学園紛争に巻き込まれ、日頃、スタミナを誇示していた私も初めての経験で心身ともに耗弱し気持ばかり焦るいやな日が1ヶ月近くも続いた。「いっそ、作曲を断ればよかった」と我身の軽率さを嘆く日もあったりして、アート弦楽四重奏団の各位には多大の御迷惑をかけたが、不満足ながら完成して見ると私の作品リストでは重要な一つの作品になるのではないかという気持がしないでもない。
それは第1楽章はソナタ形式、第2楽章は三部形式、第3楽章はスケルツォ、第4楽章はロンド形式という古典的な4楽章から構成されている。いわば私としては本格的な作品の一つという、自負があるからだろう。
作曲を志す者は、交響曲を書いてみたいという衝動を一度は必ず経験するといわれるが、私はここでその出発点としての足がかりを得られたのだと思っている。このようなチャンスを与えて下さったアート弦楽四重奏団の方々に心から感謝する一方、この拙作が小杉さん始め皆さん方のご期待に報い得るかどうかという危惧の念を持ちながら、例の如くホールの一隅に身をひそめて第1楽章の始まりを待とう。

なお、大栗裕の弦楽四重奏曲の楽譜は散逸しており、録音しか残っていません。また、この時点での大栗裕には予想できなかったでしょうが、年が明けると大阪万博で、以来、大栗裕は交響曲にじっくり取り組むどころではなくなってしまいます。

実現しなかった未来を垣間見せる京都女子大学教授大栗裕51歳の秋、なのでした。

1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産

1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産