マンボ/チャチャチャ/ドドンパ、ワン・ステップとリズム・チェンジ

マンガとシュールレアリズムをコマ/フレーム、キャラ/フィギュア(図)、複数の時間というような概念で比較する話が私には面白くて、ポピュラー音楽でこういうのはないんかっ、あったま悪いのう、とおっさん臭い野次を飛ばしたくなっていたのですが、アルテスのウェブマガジンをバックナンバーから流し読みしているとそれらしい芽になりそうな話がないわけではなさそうですね。

輪島先生がドドンパへ行く前に50年代のラテン・ブームへ寄り道してくださって、マンボが当たったあと、次から次へと「ニューリズム」なるものが投入されたらしいことを知る。(ロカビリーも最初に日本に紹介されたときは「ニューリズム」のひとつだった、というエピソードが面白い。ロックが天下を取るのは、はっきり、ラテン・ブームのあとなんですね。)

10年後20年後に大栗裕がバーンスタインの「ウェストサイド」に興味を持ったり、吹奏楽に打楽器を大量に投入して色々やれたのは、この時代の体験があったからなのだろうと、少し頭の中を整理できた。(大栗裕と同年生まれのバーンスタインは50年代のラテン・ブームに乗っかるようにして「ウェストサイト」を書いており、ロックを取り入れた「ミサ」を書くのはかなり後のことになる。)

なるほど「カタコト」はこっちにも話題を広げる可能性があるわけですね。渡辺マリの「ドドンッパ」もそうですが、リズムは口唱歌で把握するのがヒトの基本ですもんね。

(ドロンパはドドンパのもじりなのだろうか、とアホなことも考えてしまったが。)

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で、マイ・フェア・レディの踊り明かそうは何なのか、の件は、由来というのではないけれど、ワン・ステップと呼ばれているらしい20世紀初めのダンスを補助線にするといいのかもしれないと思った。

ガーシュウィンのスワニーとか、ああいうのですね。

最初に聴いて、本人のピアノロールがなんだかヌルいなあと思って調べたら、Swanee River!ということで、フォスターのOld Folk at Home(故郷の人々ってやつですね)のパロディが入っているらしい。

昔のホンワカしたノリで作ったら、大衆はそういうのが大好きで大ヒットしてしまった、いつの時代も流行歌の匙加減はそういうもので、ということみたい。

(ガーシュウィンのピアノロールは、本人がだんだん退屈してきたのか、後半はラグタイム風にリズムをどんどん細かく割って弾いてますよね。)

でも、「踊り明かそう」のツルツルの床の上をスケートが滑るような浅いランニング・ベースの上に乗っかると、ポリリズムと言えなくもない合いの手は全然別物になる。

ジュリー・アンドリュースは下半身でどんなビートを踏んでいても、上半身はナチュラルに、という感じの歌い方ですよね。

臭いと言われるアル・ジョルソンのスワニーと比べると全然違うものになっている。

アル・ジョルソンの出たこの映画(有名なやつですよね、たぶん)は、物語的には、その前の着飾った白人の社交場とは別世界のショウということになっているのでしょうか。

最初のコーラスの決めのガッツポーズが五木ひろしみたいになるわけですが、今回フルコーラスみて、そのあとにアル・ジョルソンが一瞬ステップを踏んだり、こんな歌い方なのにアフタービートで手拍子したりするシーンがあって驚かされた。「ブロードウェイの五木ひろし」にとって、スワニーのワンステップはいつまでも滅びないノリノリのビートだったみたい。

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一方ガーシュウィンの「キレた演奏」というと、たぶん、I Got Rhythm のこういう映像みたいので、ガーシュウィン自身があとでこの曲によるピアノとオーケストラの変奏曲を書いたようですが、この曲自体、リズム・チェンジのコード進行の好例のひとつという風にポピュラー音楽理論で教えられるらしいですね。

最近の岡田暁生が大好きな「ジャズの理知的側面」に組み込まれていく話で、その先にチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーのものすごいセッションみたいのが出てくることになるようだ。

録音がいっぱいあって、これがどうなのか、そういう通の方々の評価は知りませんが、ピアノなしではじめちゃって、ベースラインだけのアドリブに強い「コード感」があるのはどういうことだ、と思ってしまう。あとで吹くテナーサックスが危なっかしかったり、力のないものが容赦なく振り落とされるゲームになっていくわけですねえ。(あとでクールなモードへ方向転換するマイルス・デイヴィスは、このスピード勝負では居場所がなさそう。)

白人さんのミュージカルはああいう風にピカピカに床を磨いた清潔なエンターティンメントになっていくし、黒人さんはアフターアワーズの危険なスピード勝負にのめりこむし……、「偽装」が身上のユダヤ人音楽家が白人と黒人の間をつないでいた戦間期にはもう戻れない感じがします。これはもう公民権運動とかもう一度激しくやらないとしょうがなさそうな感じ。

50年代のラテン音楽ブームは、こういう風な階層の隙間に割り込んできたと考えるとわかりやすそうで、ブルースやカントリー/フォークやロックを強調するのとは違う音楽史が見えてきそうなのだけれど、そういう理解でいいのだろうか。