下半身への嫌悪

「建物の中を靴を履いて歩き回る人々(北半球の多くの文化がそうだ)にとって、床は汚い」

fundamental という言葉は、土方のように泥臭くやるぜ、という強い決意と裏腹に、シモの問題はあたくしの領分ではございません、と言い放つ種類の上品さを仮想敵とするかのような雰囲気を漂わせているように思う。

(ピュタゴラスは男性共同体の憧れのシンボルだが、ディオニソスは女性たちから熱狂的に崇拝されたことになっており、後者こそが fundamental だ、と言い出すとニーチェが出てきて、鈴木晶っぽい領域が開けてくる)

19世紀には女性がホントに精神的なショックで「気絶」していたらしい、見たくないもの、認めたくないものを遮断するために、人間は意識のヒューズを飛ばすことがあったらしい、とされており、ヒューズを飛ばさずにそういう領域に分け入るぞ、というのが精神分析の旗印だったのだと思うが、

最近、鈴木涼美は、カノジョが風俗やってると知ると吐くオトコたちが実在する、と何度か書いていますよね。(比喩ではなく、文字通りトイレに駆け込んで……、ということであるらしい。)

もし本当にそういうことがあるのだとしたら、見たくないもの、認めたくないものへの嫌悪感を生理的な反応に問答無用に直結させる心の働きは、どういう構造になっているのだろう。

好き/嫌い至上主義とか、上/下をめぐる文化的な了解とか、好ましからざるものを排除する作法とか、手持ちの枠組みを使おうとすると、色々なものが複合してそうなるのかなあ、とぼんやりした風にしか考えることができないのだが、何なんだろう。

20世紀のパフォーミング・アーツを授業で紹介しようと思うと、色んな映像がそこに含まれてしまうことになり、よく考えてプレゼンテーションしないといけないなあと思うのです。

隠されているものをフルオープンにすること最優先の闘争があったのは事実だが、それで万事解決、いつまでも隠す奴は意識が低い、ということでもなさそうで。

(オペラの舞台で歌手や役者を裸にする演出家はそれほど珍しくなくなったように思うが、コンヴィチュニーは、案外、そういう風な手法に行かないですよね。タブーを問う、というのは、それほど単純なことではなさそうだ。)