「音楽の国」か「演劇の国」か(吉田寛『“音楽の国ドイツ”神話の系譜学』シリーズ:まとめ)

本編3冊のほかに、ワーグナーを論じた結論部分が独立して先に刊行されており、計4冊の大きなプロジェクトである。

ヴァーグナーの「ドイツ」―超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ

ヴァーグナーの「ドイツ」―超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ

各人がそれぞれの関心に従って、腰を据えて通読するなり、自分が気になるところを拾い読みすればいいと思う。

シリーズが完結した現時点で、私が一番嫌だな、と思うのは、なんとなく「あらすじ」っぽいものだけを追いかけて読んだことにして、なんとなく感想が書かれておしまいになってしまうことだ。

とりあえず、そういう賢く意識の高い「処理」ができなくなる楔の役に立つかも知れないと思うので、ここ数日で順次書いた記事へのリンクをまとめておく。

●「近代の神話」論への倦怠

私は「近代の神話」論に食傷気味である。

それは、私個人の感想に過ぎないかもしれないが、2015年現在のひとりの読者の率直な思いとして、まず、これを言わざるを得ない。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150317/p2

●普遍性神話の確認と吟味

その上で、気を取り直して本シリーズの要約から再出発しよう。

「ドイツ音楽は普遍的であり、普遍的であることがすなわちドイツ的である」

これが著者の言う「音楽の国ドイツ」神話だ。

しかも、ドイツ人はこの神話を自ら言い出して、己のナショナル・アイデンティティにした、と著者は言う。

そんな事態が本当に起きているとしたら大変である。

誰がいつどういう経緯でそんな事態を引き起こしたのか、膨大な文献を繙いて思想史の手法で分析・記述したのが本シリーズだというのだが、

私は、鍵になる18世紀から19世紀への転換期をめぐる議論にいくつか疑問を抱いている。私自身が昔それなりにあれこれ考えて、ある程度なじみのあるところなので、真っ先にここが気になった。

この疑問が、私の批判・批評的な読みのベースになっている。

本シリーズは「思想史の方法」で課題に当たったとされるが、「思想」の「歴史」を扱う場合、ちょうど著者がしばしば参照するカール・ダールハウスが『音楽史の基礎概念』で述べた「音楽」の「歴史」におけるアポリアに似て、「思想」と「歴史」のどちらに力点を置くべきなのか、決定的な解答はないように思われる。

(3)で指摘したように「進歩史観」というアイデアが十分な説明なしに出てくるが、著者は「思想」に強く、「歴史」の扱いが、やや粗いかもしれない。

[追記:「進歩史観」なる言葉について、追加で調べた私の結論 http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150329/p1 ]

[追記2:普遍史と世界史 http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150602/p1 ]

●「読書する公共圏」と劇場

とはいえ、著者の「思想」の取り扱いはすこぶる明晰である。

問題点をクリアに照らし出すという点でも、論の見通しが良い点でも、西洋思想史の伝統が培ってきた「明晰」という視覚的な比喩が、著者にふさわしい形容だと思う。

だが、この明察に盲点はないか?

本シリーズは、参照・分析されている諸文献を生成した母胎となるドイツの「読書する公共圏」を見通したうえで書かれている。「読書する公共圏」がこのプロジェクトの舞台、議論の土台となる地平である。読書する公衆、すなわち教養市民たちの分野を超えた意外な交流のエピソードなど、読み物としての楽しみもある。

しかし一方、諸文献で論じられた音楽/音楽劇は、劇場で上演される。ワーグナーに至る音楽劇のみならず、当時はシンフォニーを含む器楽の公開上演も劇場でなされることが多かった。そして劇場もまた、ハーバーマスなら representative と形容するであろう「もうひとつの公共圏」だ。

著者は、劇場から「読書する公共圏」に向けて公刊 publish された楽譜については、これを言及の対象に含めて、適切に読む。台本もきっと読んでいるのだろうし、劇場公演をめぐる論評は、「読書する公共圏」の住人の格好の素材である。しかし、自ら劇場の扉を開いて中に入ることは、意識的に禁欲しているように見える。

方法としての禁欲があってこその「明晰」であり、禁欲はほとんどの箇所でプラスに働いていると思うけれども、副作用のようなものとして、デメリットを引き受けざるを得ない箇所がどうしても残る。

「読書する公共圏」で語られる Allgemeinheit と、劇場が想定する Allgemeinheit は同じなのか。前者は「普遍」と訳しうる文脈が濃い一方、後者は「一般/みんな」のニュアンスが強いのではないだろうか。

「読書する公共圏」を劇場という「もうひとつの公共圏」と付き合わせて相対化する手続きが不十分であることは、本シリーズの方法上の限界であるように思われる。

●「音楽の国」と「演劇の国」

そしてさらに言えば、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスを顕彰する「音楽の国ドイツ」という神話と並んで、ドイツにはレッシング、シラー、ゲーテを顕彰する「演劇の国」神話が、劇界でそれなりの強度で語り継がれているように思われる。

19世紀後半に成立した統一ドイツ帝国は「音楽の普遍性」神話の圏内にありそうだが(著者が随所で引用する20世紀の著名人たちの大半はドイツ帝国時代に育った人々である)、一方、20世紀末に再統一されたドイツ連邦共和国では、劇場が東独民主化運動の拠点であったという「劇場の民主主義/民主主義の学校」神話が再び台頭しているように思われる。

(ドイツ本国におけるのみならず、日本でも、「音楽(芸術)の普遍性」神話の効力が薄れた昨今では、「地域の拠点/創造する劇場」が文化政策のスローガンになり、しばしばドイツの事例が引き合いに出される。)

「読書する公共圏」と劇場の関係を考察したその先で、私たちは、いつか、「音楽の国」と「演劇の国」という2つの神話を付き合わせる作業に取り組まねばならないかもしれない。

●ブックガイドとワードマップ

本シリーズは、学位論文がもとになっているので当然かもしれないが、途方もなくハイコンテクストであり、引用されたり、注釈で言及されたりしている関連文献を適宜参照し、続々と繰り出されるキーワードを順次吟味しながらでなければ、とうてい読み進めることができないと私は思う。

世間の人々は、無手勝流で攻略して、「わかる」のだろうか?

それならそれでいいが、私はバカだから七転八倒しました。その概要を以下にまとめる。

(a) 音楽の「世界システム論」

ウォーラステインの世界システム論が花盛りだった1980年代に青春を謳歌した一世代上の岡田暁生『西洋音楽史』は、19世紀にドイツがイタリアから「音楽の覇権」を奪取した、とあからさまに書く。

吉田先生はそこまで大胆に「世界の構図」を明言するわけではないけれど、「音楽の国ドイツ」という神話は、ドイツ人が自ら「音楽の覇権」を宣言しているかのように見えるし、北米の学者たちによる神話批判は、20世紀の覇者によるエディプス・コンプレックス的な「前王殺し」であったかのように思えてくる。そこには、北米知識人たちの、旧宗主国である大英帝国への屈折した思いがいくらか投影されていたのかもしれない。

ドイツ危うし!

「音楽の国ドイツ」が「ポピュラー・カルチャーの国アメリカ」によって抹殺されてしまう前に、その言い分をいわば遺言として聞こうとしたのが、このプロジェクトである。

そのように考えると、このシリーズの立ち位置は、俄然わかりやすくなる。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150412/p1

(b) ナショナリズムとは何か?

ただし、そのような「世界システム論」に安易に踊らされることなくヨーロッパ諸国のナショナリズムを考えるためには、ドイツ、フランス、英国の比較、容易に一般化・標準化できないナショナリティの多様性を最低限押さえておくべきであろう。

→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150321/p1

(c) 歴史学と神話学

両者は似て非なるものであるはずだが、その違いと関係を言おうとするとやっかいである。しかし、「近代の神話」を思想の「歴史」として記述するこのようなプロジェクトと対峙するときには、概要を押さえておく必要があるだろう。

(d) 再び 「近代の神話」について

そして(b)の作業は、私を食傷させる「近代の神話」論が、高等遊民の時空から遊離した好奇心ではなさそうだ、という認識にたどりついた。

以上