canon批判をcanonizeする代用教員組合について

canon批判で世に出た人は、その所作をcanonizeしがちである。

これは、「60年代若者文化を70年代以後21世紀になっても美化しつづける団塊・全共闘」という図式で既におなじみのものだと言って良いだろう。(そのような図式の批判こそが、和製カルスタのcanon/canonize批判なのだから。)

ケース1:

プリンスの死を、俺が高校生の頃に遭遇した裕次郎やひばりの死になぞらえるのは、「いずれはプリンスがcanonになるであろうから、お前たちはこれから、ちょうど俺たちが団塊canonに取り組んだように、団歌チルドレンcanonの批判に取り組むのだぞ」という、ループ構造の宣言である、という理解でいいのだろうか? しかし、既に手順が十分に予測される事柄とは、まさしく自動処理の得意分野であり、人間がやらなくても機械に任せれば良い案件なのではなかろうか。たぶんそこに「歴史」はない。

ケース2:

「あるテーマの論文が、“当然参照すべき先行論文”を参照していない」という事態を一種のマナー違反として糾弾する行為は、先行者利益を既得権としてcanonizeする危険をはらむ。

例えば、第二次世界大戦後の日本には、数学者・物理学者が戦時中に欧米の情報が入らない状態で積み上げた業績が戦後になって国際的に認められる、というタイプの美談があった。

そのような「戦争の闇と平和の光」図式の神話作用については別途吟味することにしてここでは脇におくが、

先行研究を直接的には知らないままに、ほぼ同じ結論に到達してしまうケースが、先端的であったり、複数の人間が関心を抱きうる分野であったりする場合には、しばしば起きる。発明や発見のプライオリティの争いが生じるのはそのせいだろう。

「情報社会」がその種の「知らずに同じ場所にたどり着く」を根絶した、もしくは、根絶するはずだ、と信じるのは、おそらく、自らを全能に近い何かであると過信する振る舞いだと思われる。

「先行論文を参照していないこと」それ自体をマナー違反として糾弾するのは虚しい。

(そのような話法で論文を査読しようとすると、戯画的なまでに凶悪な文体になることが知られている。)

そうではなく、ある論文を参照しなかったことによる不備や欠陥があるのだとしたら、それはどこなのか、という話法で、問題点を指摘してはどうか。もし、ある論文を参照しなかったにもかかわらず、不備や欠陥を具体的に見いだすことができなかったとしたら、類似の問題を別のルートで解決する新たな業績として、むしろ、賞賛されていいはずだ。

(マナー違反というモードに入ると、相手が「意図的に特定の研究者を黙殺する」といった政治を前にして学問が無力になる。学問としてどうダメか、ということについて、学問として議論できる余地がまだ残っているんじゃないだろうか。)

ある文献を引用しない者は、空気を読めない者だから早晩「仲間はずれ」になって沈没するであろう、という呪いの言葉はかなり醜い。

「ニッポンの人文」は、自然科学などから謙虚に学べることがまだ色々ありそうに思う。前途多難である。