「痴れ者」考

ひとつ前のエントリーで「音痴」の語を使った。

「音痴」は、今では「canon批判」の文脈で、政治的に正しくない言葉に分類されている。

西洋音階こそが「規範」であり、そこから外れる伝統音楽の音感は「音痴」とされた。(実際、「音痴」の語の初出は大正時代であるらしい。)民族音楽学・文化相対主義の観点から、このような「規範/逸脱」図式は克服されねばならず、「音痴」とされる音感は、それ自体として擁護されねばならない。

ほぼ、こういう理路だと思う。

小泉文夫がレコード大賞の審査員になった70年代、ジャパン・アズ・ナンバーワンの80年代、ワールドミュージックの90年代、という流れにカラオケ・ブームが足し合わされて、ポリティカル・コレクトネスというモラルが上陸したことで、かつてなら「音痴」と形容されたであろう振る舞いは、まさにそれこそが rest of us の声である、という風に市民権を得て、単語としての「音痴」は日陰者になった、という風にまとめることができそうに思う。

でも、今現在 rest of us として市井に鳴り響いている「声」をどのように分析・分類するのが適切か、という話とは別に、

「痴れる」という単語が大正期の日本でこういう風に新語を生み出したのは、何か味わい深いことのような気がする。

今では「酔いしれる」という言葉が、「しれる、は、痴れる、と書けるのだ」ということすら知らずに細々と使われているくらいだと思う。私も、「痴れる」という言葉をさっき調べてはじめて知った。「痴れる人=痴れ者」を具体的に想像しようとしても、今では、酔っ払いくらいしか例が浮かばない、ということだと思う。

あとは、「痴情のもつれ」という言い回しの「痴」が、きっと谷崎潤一郎『痴人の愛』の「痴」と同じ意味なのだろう、と、辛うじて類推される程度か。

その『痴人の愛』も大正13年(1924年)の作品ですね。

音痴の「痴」は、なんらかの猥雑と認識されていたのだろうけれど、批判するにせよ擁護するにせよ、北米風「canon批判」の文脈におけるような逸脱、価値転倒のバネとなり得る rest of us、というのとは違う含意がありそうだ。

(そしてその上で、西洋音階で歌えない者を「痴」と形容した大正期のモダニズムに倣って言えば、21世紀になっても大西洋事情を参照しないと太平洋をめぐるあれこれを考えられないと思い込んでいる者は、当世の「痴れ者」だと思う。どちらが正しい間違っている、というのではなく、俗世の流れにノレず、さりとて、孤高の知者というわけではなく、フラフラと酔っている感じがする。

当世の「痴れ者」は、大正期の遊び人のように歌舞伎・義太夫・近世邦楽に「痴れる」のではなく、大学の人文に回収された現代思想に「痴れる」人々なので、洋の東西の向きが逆のようだが、旦那衆の遊蕩であることは変わらない。)

ゲンロン2 慰霊の空間

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『知の技法』三部作をはじめとする批評・思想の「大学化」、官僚的な手法による「東大のブランド戦略」を回想する東浩紀は、「痴れ者たちの誕生」を語っている感じがする。その人たちが長じて、今、「人文の擁護」を叫んでいるわけですよね。