エネルギーとエントロピー:熱力学的な2種のメタファー

animation の liveliness という着想は、よくよく考えてみると、そもそもが

 animation = anima (生命)を吹き込むこと

なのだから、

 生命(anima)を吹き込まれたもの(animation)は生きている(lively)

ということになって、ラテン語系の言葉をアングロサクソン系の言葉に言い換えた同語反復になりかねないので、案外やっかいだなあ、と思ったりする。

「レイヤーの重ね合わせ」とか「アイコンが同時にオブジェクトである」とか、というところに着目するデジタル・テクノロジー論は、その技術を運用している共同体で流通している語彙から詩学的であったり美学的であったりする理論を立ち上げる試みだという点では、インフォーマントの使用する語彙・観念から理論を組み立てる民族科学・エスノサイエンスなのだと思う。現代の最新の技術に取り組む集団を人類学者のような視点でフィールドワークしているわけだ。

同じ地上の人類の営みであるにもかかわらず、少なくとも私個人にとっては「未知の世界」ではあるので、そういうアプローチがあり得ることなのだろうと思う。

たぶん、「これを知らない者は未来に乗り遅れるぞ」的なジャスティスと動員の話法ではなく、そこにコミットするわけではない部外者にとって、その報告がどのような意味をもつか、という観察者のスタンスを見いだしうるかが鍵なのでしょうね。

で、そのようなエスノサイエンス的な動画論と、エイゼンシュテインの映画論を動画論に適用することの是非は、それこそ、別のレイヤーの話なのだろうと思うのだけれど、エイゼンシュテインが提唱したとされる運動の分類、(1) 物体の移動、と、(2) 光の振動、という区別は、おそらく、ニュートン的・解析的な古典力学と19世紀以後のエネルギー説やエントロピー概念が召喚されざるを得ない熱力学の区別に対応していますよね。19世紀に数学的・物理学的な基礎が準備された熱力学はブラウン運動をアインシュタインが上手に読み解いて20世紀に本格的な発展を遂げて情報理論にもつながっていくわけだから、デジタル・テクノロジーが後者と結びつくのは、いかにも、という感じがします。

たぶん、エイゼンシュテインやその他の20世紀前半の映像作家たちが光や波の運動にアーティスティックな関心を寄せたのは、同時代の科学の最先端の「発見」を「カメラで捉える/スクリーンに投影する」ことに熱中した、ということではないかと思いました。(欧米語の「発見 = discover/Erfindung」は視覚的な語彙ですし。)

熱力学的なメタファーとしては、もうひとつ、エネルギーという魅力的な概念があって、19世紀後半から20世紀前半のヨーロッパを席巻したドイツ帝国の音楽美学にはエネルゲティカーと呼ばれる一群の人たちがいるし、美術史学のヴェルフリンの意志 Willen とか、ヴォーリンガーの衝動 Drang の語の使い方には、エネルギー風の何かを表現の背後に探り当てようとする感じがある。

熱力学をそういう風に禍々しい不可視の領域として表象する(もしくは表象の限界・臨界と位置づける)一派があって、同時代にはむしろこっちが人口に膾炙したけれど(ワグネリズムからフルトヴェングラーまで「音楽の国ドイツ」はエネルギーが大好きだ)、しかし実は、英仏には別の系譜があった。それが、ジョナサン・クレーリーの言う「観察者」であり、20世紀前半の映像作家たちだった、ということかもしれないなあと思いました。

(蓮實重彦が武器にしていたテマティズムはテクストの外部との結びつきを想定しがたい記号の情報論的な偏差を検出するアクロバティックなパフォーマンスという感じがするし、リュミエールを瞳が表層的に受け止める、という言い方をすると、エイゼンシュテイン流の「運動その2」と似た何かを言おうとしている感じになる。)

ただし、エネルギーとエントロピー、意志・衝動と観察・遊戯、という対比の枠組を持ち出すと、アートとは何なのか、弁論・レトリックに重きを置くのか、模倣・ミメーシスに重きを置くのか、というように、近代初期に必ずしも同質ではない様々な技術が「美しい諸技芸」に制度的にまとめられた頃の議論が形を変えて再燃した感じになるかもしれないなあ、とは思います。

静止画を積み重ねる動画はミメーシスを語りやすいジャンルだけれど、舞台上のドラマ(演劇)では、ブレヒトのように強烈なレトリックを打ち出す人たちがいて、距離の美学とショックの美学が20世紀には拮抗していた気がします。

(「異化」という概念も、シクロフスキーの文学理論では既知の事象の表層を未知の何かとして再スキャンする「距離」の技法のような感じがする一方、ブレヒトの異化効果は、京劇の梅蘭芳とか、そういうショッキングな異物と言われてしまいそうな存在を擁護するために採用されたとりあえずの口実・レトリック(のひとつ)だったのではないか、という気がします。)

アングロサクソンの覇権(英語の世紀としての21世紀)が、距離・へだたりの美学の勝利を意味するのか、今はまだ、判断を保留したほうがいいのかもしれない。テジタル・テクノロジーの主流はアングロサクソン系なので、この領域では距離・へだたりの美学が支配的である、という暫定的な観測は、ありかもしれないなあ、とは思いますが。