カトリックの海洋帝国とダンス/リズム至上主義

スポーツの祭典の開幕に映画監督が最新のプロジェクション・マッピングとともにサンバをフィーチャーしたのを見て、ここぞとばかりに、南半球の「もうひとつのアメリカ」が、いかに北半球の合州国と違っているか、世界の音楽はかように複数であるのだぞ、と主張するのは、時宜にかなった教育的・啓蒙的な振る舞いだろうとは思うけれど、

南半球の暗黒大陸や黄金の新大陸が主として「ダンス」(リズム)によって表象されてしまうのは、プロテスタントでアングロ・サクソンな1600年以後の「帝国」のひとつまえの、7つの海を支配して日の沈むことのなかったラテン系カトリック圏の君主たちが、教会の力を押さえ込み、virtualな(=勇気 virtue が支配する)世俗世界を確立するときにダンスを利用した戦略の上にのっかる「植民地の痕跡」である可能性はないのだろうか?

(つまり、「もうひとつのアメリカ」とは、もうひとつの世界、アナザーワールドというよりも、もうひとつの、より古い西欧の植民地に過ぎないかもしれないわけだ。)

複数の音楽もしくは聴覚文化には踊られない領域が広大に含まれており、私たちの住むこの惑星には、重力に抗い、飛び跳ねて踊ることが勇気である文化圏の人々は、東方に「踊らない」(あたかもウジ虫のように地を這っている)者たちがいることを知っていて、「我々とは異なるその他」としてのアジア/オリエントが21世紀の火種になっていたりするわけだが。

スポーツの祭典は、同時に、「踊らない身体」を考える好機かもしれない。この祭典の神話的な発祥の地とされるギリシャの古代の祭祀は、「踊り」というより、朗唱を伴う「舞い」だったかもしれないわけで……。

P. S.

偶然ですが、今月の日経の音楽評では、「ミサ・タンゴ」(こちらはアルゼンチンの作曲家がローマで初演したスペイン語の簡略化された典礼文によるミサ)とベートーヴェンのエロイカを組み合わせた大阪フィル500回目の定期演奏会について書きました。

大阪にはだんじりがあり、だんじりとサンバがみずからの原点だ、と語るドイツ在住の打楽器奏者、中村功さんがいらっしゃるわけですが、だんじりというのも海洋都市の祭礼で、大坂がこういう気風の都市になったのは、やっぱりせいぜい近世/大航海時代以後だろうなあと思います。

古代王朝に渡来人がもたらした芸能や祭祀は、これとは随分違っていたことでしょうから。