diastema と ambitus

diastema は歯と歯の間隔の意味なので、複数形の diastemata は歯形、ambitus は動く範囲、領域、というような意味で、どちらも音楽に関してはグレゴリオ聖歌などの単声旋律のモードを論じるのに重宝される言葉のようだが(単声旋律の動きのどこに半音がありどこに全音があるかという音と音の間隔が diastema で、旋律がどこからどこまで動くかというのが ambitus なのだと思う)、でも、ダールハウスは、単声旋律を扱うことで得られた知見としての diastema を音列による作曲や、その源流となるベートーヴェン、シューベルトやロマン派音楽の音程制御技法を語るのに転用する。

(つまり、古典・ロマン派音楽の「動機・主題労作」こそが器楽創作のアルファでありオメガであって、バロック以前はその前史、20世紀の新音楽は、この技法が盛りを過ぎて堕落していく音楽史の黄昏である、と言わんばかりのドイツのナショナリスティックかもしれない作曲技術史の図と地を反転させて、単声聖歌の周囲に発展した diastema の制御技法が20世紀まで伝承され続けており、「動機・主題労作」は、この1000年の長い周期で「音程」と取り組んでいる西欧音楽の一挿話に過ぎないかのように語られる。民族音楽学に造詣が深いヴァルター・ヴィオラの弟子で、新音楽直系のベルリンの音楽家たちに近かったダールハウスならではの視点かもしれませんね。)

そして ambitus は、特定の領域に動きを固定したり、そこを踏み越えることに「表現」を見いだすタイプの分析で用いられる言葉で、これもまた音楽の表現主義との関わりが深そうで、音域の固定や踏み越えは音色・音響の変化として認知されることが多く、音色・音響(サウンド)が作曲・聴取で有意味になる19世紀以後の音楽を分析・記述するときに重宝する。

たとえばシューマンが好んで使ったとされるアナグラム ASCH - SCHA や CHIARA、あるいは、バッハの神格化とともに色々な作曲家が使うようになった BACH、ショスタコーヴィチの楽曲解説で最近は強調されすぎているかもしれない DSCH は、楽曲のなかに、何らかの意味の指標となる「歯形」を見いだす行為なわけですね。(「ここに歯形がついているから、作曲家は何かを指し示すために噛みついているに違いない」と推理するわけだ。)

でも、そのように「噛み跡」を探し回るタイプの音楽の聴き方は、どこかしら探偵的で、偏執的ではあるかもしれない。(まるで、犯罪の臭いをかぎ回る警察犬、スキャンダルの痕跡をしつこく追いかける芸術のパパラッチだ(笑)。)

ダールハウスは、diastema から「作者」の意図やメッセージを読み取る探偵ではなく、音列による作曲や主題的な布置・設定、などの作曲システムを仮説的に読み取るための手がかりとして diastema を利用していたわけで、私たちはむしろそっちを思い出したほうがいいかもしれない。

(アナグラムは、複数の音の音程関係ではなく、音名=特定の音高に意味を見いだしているので、diastemata の用法としては特殊だけれど。)

一方、歌曲の前奏は、歌手がこれから歌い語ることになるメロディーの ambitus を準備する役割があると思う。

同じシューマンの「詩人の恋」の冒頭は、右手のcis に左手のバスが d で応じる官能的な長7度ではじまって、声のパートも同じ cis で歌い始める。ただし、前奏のピアノでは、cis に固執する右手をバスが尊重して cis に半音下降する(長7度の緊張は fis-moll のドミナントに解消される)のに対して、

(シューマンの音楽は通奏低音風にバスの上に和音とディスカント声部が踊るのではなく、メロディーに感化されるようにバスが動いてしまうことで浮遊感を生む、この浮遊感が、同様にバスを柔軟に動かすフランスの音楽家たちにドイツ音楽としては例外的に好まれているのかもしれませんが、それはともかく)

歌の第1行は、cis からすぐに h に移って、平穏な A-dur のカデンツを導く。d - cis の長7度の不安定な初期設定を、ピアノの前奏と歌の第1行は別様に解釈するわけですね。

(しかも面白いことに、イタリア・オペラのアリアのように、常套的な器楽前奏を受けて、声がとっておきの表現でメロディーを個性化するのではなく、最初のピアノの前奏こそがシューマン特有に個性的なやり方で「美しい五月」のトーンを生み出すのに対して、これを受ける声の歌い出しは、むしろ、まだ覚醒しきっていないかのように常識的で没個性的だ。)

で、この第1行の歌は、平穏な長調のカデンツにのって、上が d 下が fis というリートとしては常識的な中音域に収まっているのだけれど、第2行は a h cis から e に高まる。わずか1音(全音)ではあるけれども、ここで e に伸び上がるのは設定された ambitus を踏み越える事件の始まり、という風に聞こえるし、これを皮切りに、次は d e g fis という風にさらに短3度上の g まで高まっていく。

ここは、ambitus を上へ上へと押し広げる「事件」であるだけでなく、d-e-g-fis という昇りつめたところのジェスチュア(=歯形 diastemata)が、h-cis-e-d のヴァリアントであると同時に、ジュピターの音型(ドレファミ)になっているところが興味深いですが、

それはともかく、せっかく声が高まっているのに、その直後に、ピアノは a d gis fis eis という風に、あっさりさらに半音上から声を包み込んでしまうんですよね。しかも、このピアノが gis へ伸び上がる身振り(a-d-gis-fis)は、声のパートの d-e-g-fis のヴァリアントであると同時に、a-gis の長7度が冒頭の響きを連想させて、実際にそのまま前奏の音楽に戻ってしまう。

シューベルトが多彩で豊かなアイデアの数々を湯水のように歌曲に注ぎ込む様は壮観だとは思うけれど、シューマンがポテンシャルを作品に結晶させる力は、なるほど音の「詩」だ、という感じがしますね。