ゲームの経済/経済の遊び

この島では「ゲーム理論」が舶来の新しい金儲けの方法として利用されて、経済に遊びがない、というようなことは言えるのかもしれない。広い空間(拡張現実のモンスターを追いかける遊びに興じて「モンスター化」していると周囲から見られつつある人々が群れることのできるような)も、あっという間に効率的にどこかへ人を誘導するための装置として編成されたりするわけですよね。イベントという名の宣伝広告があったり、最近では地面に矢印めいた図柄を描いて人が一定の方向へ動くように、あるいは、整然と行列を作るように仕向けられたりして(「動線」とかいうやつですね)。

「遊び」と直接関係はないけれど、新しい大阪駅の周囲では、エスカレーターの右側(歩かなくてもいいとされている方)の手前にものすごい行列ができて、左側がスイスイ歩けたりするのだけれど、あれは、何をもって便利・快適とみなすのか、価値と判断が転倒してしまっているように見える。

遊びと効率を組み合わせるときの噛み合わせ方が、あまり快適ではない方向に画一化しているんじゃないか。

「ゲーム」というカタカナ言葉は、そのような画一化にお墨付きを与える護符として機能してしまい、「遊び」と翻訳できない何かになっているのかも。