芸術自己目的説への疑問:「もてない芸術」のために

芸術とはそれ自身以外の目的をもたない行為である、という主張は、自由と必然を対比して芸術を自由の理念の具現化であるとみなした近代西欧の市民(ブルジョワ)の芸術論(芸術の自律とか芸術至上主義とか)を、20世紀大衆社会における情報やメディアについての議論として有力視された構造や記号をめぐる議論が継承して、これをさらに、「もの」的世界把握から「こと」的世界把握へ、というポストモダン/ポスト構造主義の風潮に合わせて、行動の理論に模様替えしたように見える。つまり、構造主義言語学で言う「詩的言語」を記号全般に拡張して、芸術とはそれ自身以外の何も指し示さない記号である、とみなしたうえで、議論の力点を記号という形式から、何かを指し示す行為に移したのが、芸術自己目的説なのだろうと思う。

でも、人類の歴史において、芸術(とよばれる行為もしくはアウトプット)が高潔にそれ自身で完結したことなど、未だかつて一度たりともなかったし、今後もそんな状態が実現する見込みはないんじゃないか? 西洋の理論家が、そうであればいいなあ、と夢を語り、キレイゴトを言っただけなのではないか。

啓蒙や教養を駆動した自由と必然の区別、総動員新体制における文化の構造・記号としての把握、そして対抗文化のマイクロポリティクスとしての行動の理論は、それぞれにしかるべき時代や文化の要請に応えていたのだろうし、それらの理論において、「自律」や「自己言及」や「自己目的」は、理論上の特異点であり、理論を理論として鍛えるのに役立つ検討課題ではあったのだろうけれど、そのような理論が実際になされてきた「芸術」を捉えることに成功したとは思えない。

「芸術」は、理論の整合性や完成度を高めることに奉仕するために存在しているわけではないと思うんだよね。

(関ヶ原で西軍が東軍に負けたように、この種の統合理論はバブルの崩壊とニューアカの瓦解で無効になったと思っていたのだが、あたかも1600年には幼かった秀頼が15年後に成人して大坂城に牢人を集めて立てこもるかのように、2016年の末になってから「芸術自己目的説」を清々しく旗揚げする理論家が登場するのは、いったいどういうことなのか。どこの淀殿が若殿様を庇護しているのでしょうか? いまやアラウンド・フィフティになりつつある「自立した女性」の方々(出版社の編集担当に多そうだ)は、こういうキレイな理論を暖かく見守ってくださりそうな気がしないではないですが。

「生活に困らないほど資産があるか、大学教員やサラリーマンの定収入があるか、通俗小説で生活費を稼ぐかしないと純文学はやれない」(小谷野敦)は、おそらく芸術全般に妥当する。自己目的は仮象である。ベストセラー作家の赤川次郎が文楽を上手に語る、というのが成熟した「芸術」の世界なのではないでしょうか?)