無目的もしくは自己目的な行為

「それ自体を目的とする行為や過程」という発想が芸術や遊びの定義に出てくることがあるようだが、これに特異点として着目するのは近代特有ということになるのだろうか?

「自由学芸」というキリスト教会風の括りの力点はおそらく思惟(アタマ)と労働(カラダ)の区別にあるのだろうし、「美しい諸技術」という近世フランス風の言い回しが出てきたときには、アタマとカラダが協働する技術が何に関わるか、ということが問題になっていたはずで(「美しい諸技術」とは要するにアルプス以北の後進国が考え出した区分に過ぎないという風に佐々木健一先生はお考えのようだ)、しかしこれらの技術が「美」や「快」に関わるといっても、これらの技術と「美」や「快」の関係を「手段と目的」図式で捉えるのは問題がありそうで、そうこうするうちに、同じ技術が必ずしも「美」や「快」とは呼べない何かに触手を伸ばし始める一方、市民社会(=誰もが「仕事」をする社会)は技術よりその成果物(「仕事/作品」)を起点にものを考えるようになって、そこで考案されたのが、「美の無関心」とか「それ自体を目的とする行為」とかなのだと思う。

でも、そうすると「遊び」論は、「美」や「芸術」を言い難くなった時代における芸術論の延命策、過去の資産のリサイタルということになってしまいそうなのだけれど、それでいいのだろうか。

現状では、「美」や「芸術」を取り扱う人たちは、「今さら、それ自体を目的とする行為などという19、20世紀風の条項はもう効力が失われつつあるよなあ」と思っているように思う。「それ自体を目的とする行為」という観念をカジュアルに使って大丈夫なのだろうか? そこを強調しすぎると、「遊び」というそれ自体としては興味深いかもしれない行為が「美」や「芸術」のパロディになってしまうのではなかろうか。

また逆に、アート・ワールドとは一種のゲームだ、という議論もあるようだけれど、そういう議論は、「美」や「芸術」をゾンビとして延命させてしまうような気がする。というか、現にそのようなゾンビが今既に世に跋扈しているような気がする。

ゲームはゲーム、アートはアートで、重なるところや接点はあるだろうけれど、それぞれの道を行く、ということになるんじゃないかなあ、と漠然と思う。