名前を売りたい人々

十数年前の大河ドラマ「新撰組!」に岩倉具視が伊東甲子太郎の名前を覚えようとせずに侮辱する場面があったが、今思えば、あれは京のお公家さんの陰険さの表現というより、三谷幸喜がどこかで経験したのかもしれない現代の芸能界の風景だったのでしょう。

宣伝・広報とはタレントの「名前を売る」ことである、という面がおそらくある(あった)。売名行為の語があるように、悪評であろうと名前が広まればこっちのものだ、という考え方が、今では「昭和的」と懐古的に語られてしまうかもしれない芸能界・マスコミ・ワイドショウの日常だったような記憶がかすかにある。

テレヴィジョンという最先端のメディア・技術、マス・コミュニケーションという時代の花形である舞台で、実に野蛮なことが繰り返されていた時代があったわけである。

そして次第に薄れつつある記憶をたどると、そのような野蛮な場所を物語風に描写するバックステージものでは、タレント/スターの「名前」を売るのと裏腹に、決してその名前が表に出ることのない無名のスタッフたちがうごめくことになっていたような気がする。「お前の代わりなんていくらでもいるんだ、身の程をわきまえろ」とか言われちゃうメロドラマである。

現在は、メディア状況も、文化芸能が花開く舞台も、そんな野蛮な時代とはずいぶん変わりつつあるわけだが、今でも相変わらず、「名前を売る」が宣伝・広報の本命であり、そのために身を挺する「名もなき者」がその背後には膨大にいて、日々メロドラマが繰り広げられていると信じ続けている化石のような人たちが、おそらくいるんだろうと思う。

高齢化社会なので、そのようなノルタルジー市場もある程度延命してはいるのだろう。

「私は決してお前の名前を口にしない」

というのは、もしかするとそのような後期高齢者のノスタルジックな世界では、ようやく手に入れた権力の行使なのかもしれないが、でも、実際のところは、そのように古くさい作法で売買するまでもなく確かにそこに存在している「名前」を前にして、どう対応したらいいのかわからない臆病者が、その名前を口にする勇気もなく怯んでいるに過ぎなかったりするのかもしれない。

憐れなことである。

当節のクラシック音楽の宣伝・広報では比較的よくある話な気がします。

(でも、それはそれとして、広瀬大介さんは「音楽評論家」なのでしょうか? オペラ学者の翻訳上のこだわりが成功していたかどうか、というだけの話だろうに、どうしてストレートに物が言えなくなる仕掛けをあっちこっちに作るのだろう。)

P. S.

昨年末に、演奏会の帰りの京都の地下鉄で、旧知の業界の女性たちと一緒の「彼」と同じ車両に乗り合わせたことがあった。悪戯心を起こして、私がそのなかの一人に耳打ちして質問させたら、「彼」は昔話をはじめて、「へえ、すごい」と感心されて、めでたく会話の中心に収まった。「東条さんはグルッペン(の日本での上演)を3回とも聴かれたんですか?」という佐藤千晴の問いかけは、わたしの入れ知恵なんですわ(笑)。たぶん「彼」は、こういう接待で日々を過ごしているのでしょう。