リヒャルト・シュトラウスの山越え

アルプス交響曲は後半の嵐のなかに牧場の主題や泉の主題が前半とは逆の順序で出てくるので、往路と同じ道を下山するストーリーになっていることがわかる。

アルプス(ドイツ・アルプスのツークシュピッツェ)を「越えた」わけではなく、頂上まで行って戻って来たわけで、このストーリーはサロメとエレクトラで切り開いたアヴァンギャルドへの道を「ばらの騎士」で懐古趣味・モーツァルト主義へ引き返した「保守派」に似つかわしい。

でも、本当にそうなのか。

夜明けの壮大な序奏(映画のオープミングみたい)のあとに出てくる「ソ・↑ミb・↑ソ・↓シb・↑ラb・↓ファ・↑シb」が、長和音(ソ・↑シb・↑ミb・↑ソ)を一段飛ばし(ソ・↑ミb・↑ソ)で駆け上る山登りのモチーフをメインテーマとして構成された「シンフォニー」なはずなのに、頂上では、小さな十字架の前で祈るようなオーボエのあと、「幻影」で滝壺に映った影として予告されていた山並みの稜線のようにジグザグに動く主題(ソ〜↓ミ〜↑ソ〜↓レ〜↑ソ〜↓ド)と、こちらは序奏の日の出で導入されていた太陽の主題(ド〜シ〜ラ|ラ〜ソ〜|ラ〜ソ〜ファ|ファ〜ミ〜……)しか出てこないし、そのあとの下山は、登山の主題が真っ逆さまに反転して転落する展開部風の場所ですよね(レb・↓ファ・↓レb・↑ラb・↓ド・↑ミb・↓シb・↓ラb・↓ソb)。そして地上に戻ると、一日がかりの登山を回想するコーダになってしまう。

初期の「死と変容」の死後の浄化(そこでは死の床の主題群が消えてなくなる)とはまた違ったやり方で、アルプス交響曲においても、山を登って下りる過程でシンフォニーのエンジンであるはずのソナタ形式が別のものに変質してしまっているように見えます。

では、ソナタ/シンフォニーが何に変質したのか。

ポイントは、作品の前半の主役であったはずの山登りの上昇主題が三和音(ミb・ソ・シb)や七の和音(シ・ファ・ラb)を基礎にしているのに対して、

(さらに言えば、曲中で何度も響く角笛は長三和音の六度付加(ド↓ソ・↑ミ↓ド〜↑ラ↓ソ[=「アルプスの少女ハイジ」のオープニングのホルンとほぼ同じ音の配置]だし、印象的な滝の描写もトランペットの高音域のD-durの三和音ですね)

冒頭と最後の宵闇は短調の下降音階、太陽の主題は、何度か節が付いているけれど、長調の下降音階です。

アルプス交響曲では、人間界=上行する三和音が、大いなる自然=下降する長短音階に取り囲まれています。

  • 天空の太陽=最高音から下降する長音階
  • 人間界=三和音
  • 夜の闇=最低音へ下降する短音階

で、こういう風に作品内に複数の音素材をコスミックに割り付けるのは、新ドイツ派の交響詩やワーグナー派の楽劇というより、印象派ドビュッシーに近い発想だと思う。

ドビュッシーやラヴェルの刻々と表情を変えて移ろう水・海の音楽と、リヒャルト・シュトラウスの屹立する山・岩の音楽は対照的だけれど、従来の調的和声音楽とは別のスタンスで音素材を取り扱う手つきを、シュトラウスは彼なりのやり方で取り入れようとしているように見えます。

(そもそも、曲の冒頭で短音階が積み重なっていく合成音は、ドビュッシー風の「ペダルを踏んだオーケストラの響き」ですよね。)

20世紀の「保守」や「折衷」に分類される音楽は、19世紀までの調的和声音楽とほぼ同じ素材を使い続けてはいるけれど、それを取り扱う手つきと態度が違っている。リヒャルト・シュトラウスは「前衛の橋」を渡ることはなかったけれど、アルプス交響曲のあたりで、彼もまた世紀の転換という山を越えて、もしかすると映画音楽あたりと地続きかもしれない20世紀の新しい平野に足を踏み入れたんじゃないか、という気がします。

(そしてアルプス交響曲のことを人前でお話しした(といっても、ここに書いたことを全部十全にご紹介はできませんでしたが)その夜のブラタモリは「高野山」で、そういえば、大栗裕は「雲水讃」という御詠歌が出てくる曲の自作解説で、「中学生の頃、高野山に行って、将来は僧侶になりたいと思ったものだ」などと書いている。1960年代の「雲水讃」や役行者に思いを馳せた「呪(ジュ)」、晩年の恐山のイタコを扱った「巫女の詠えるうた」は大栗流の山岳音楽だと思いますが、西欧文化における山(アルプス)と、日本の山岳宗教都市高野山は、山といっても随分違うようでもあり、山に登って降りてくると何かが変容してしまう、というのは、共通の何かがあるようでもある。大栗裕の「親分」だった朝比奈隆はアルプス交響曲が大好きだったわけですが。)