幻聴? by Beethoven

http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/23790082.html

大久保さんが言ってるのはベートーヴェンの変ホ長調ソナタ(op.27-1)の終楽章のここだけど、

私には、右手の一番高い音が数小節前のdesからジリジリとズリ落ちてきたラインは「ソb ファ ファ ミb」で切れて(それまでずっと半音で降りてきたのに(chromatic=色つき、の進行を順次進行と呼ぶものだろうか?)、最後は「ファ→ミb」とディアトニックへ緩んで色落ち・平準化されますし)、譜例2小節目の2拍目は、オチを付ける終結句。チャンチャン、という感じに「ラ! ラ! シb!」でまとめているように聞こえます。(最後のアウフタクトは、c-bではなく、a-bという導音進行を軸にして弾かないと、ベートーヴェンらしいカッチリしたカデンツにならないと思う。ここは、短い親指が黒鍵(es)、外側のc音は小指。導音aは、一番長い中指をぐっと曲げたベストポジションで弾くわけですから、いかにもa音をしっかり決めてくれ、と言わんばかりの楽譜かも。)

さらに詳しく観察すると、1小節目の1拍目は偶数番目の高い方の16分音符が和音なのに、2拍目の裏から、今度は奇数番目の低い方の音が和音になっています。つまり、ここまでは裏打ちの高い方の音を強調していたのが、表打ちの低い方の音に力点が移っていることがわかります。

この部分は、トレモロ風に右手をパタパタしながら弾く箇所ですが、ここまでずっと小指側(=裏打ち)に重みがあったのを、親指側(=表打ち)に重心を移せ、ということだと思う。

そうしておけば、2小節の2拍目で手を低い位置にポジションチェンジする(すなわち、重心を移した先の親指側=左側へ右手をスライドする)のを準備することにもなって、2拍目の「ラ! ラ! シb!」を狙い澄ましてバッチリ決めることができそうです。

ベートーヴェンの譜面は、ひとまず、そういう手の動きを示唆しているように、私には見えます。(というか、そう解釈しないと、ここをスムーズに弾けないと思う。)

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で、これは鍵盤楽器特有の幻聴のポリフォニーと読むことができるんじゃないでしょうか。

つまり、裏打ちが作り出すところの、高音域を上から半音で降りてくる「歌声」は、おそらく「f」にたどり着いたところで使命を終えてフェードアウトしてしまうんですよ。

で、代わりにその下に、「レ+シb | ド+ソ ド+ソ」という二管一組の管楽器(この音域だとクラリネットかホルン、ホルン5度が出てこないからクラリネットかな)が入ってくる。

そうして次に、いかにも鍵盤楽器のステレオタイプな音型が出てきて、パタパタ運動のザワザワした響きのなかから「歌」や「楽器」の幻を聴く遊びの時間はおしまいになる。

(ここは、夢うつつに妙なことを口走るボケ役を、パッカーン!とツッコミ役がシバいてオトす掛け合い漫才みたいな感じがします。事実このあとのメロディーは、吉本新喜劇のテーマ曲みたいにご陽気じゃないですか(笑)。)

この解釈だと、バスが「ラ! ラ! シb!」のところだけ逆ネジを食わせて上下逆なのも、それまでとは別物であることをはっきりさせる意図だということになるし、1拍目から2拍目にかけてのところは切れていて、「死んだ音程」なので、そこはつなげて聴こうとしてもつながらないのが、この作品においては「正しい」ことになりそうです。

私には、ベートーヴェンからシューベルト、ウェーバー、そしてシューマンの初期くらいまでのいわゆるウィーン式フォルテピアノの「一人遊び」系鍵盤音楽の楽譜が、全部こんな風に立体的な、飛び出る絵本のように見えます。

これは、聞き流していい通過点というより、1拍ごとに状況が変化するキメのポイントだし、鍵盤楽器が繊細巧妙に弾けて、理論と戯れる術を知っていて、鋭敏な耳をもったヴィルトゥオーソの書いた見事なパッセージだと思う。

(アンティークのフォルテピアノを復活させるのだって、こういう音楽のこういう側面を快適に楽しむためだと私は思ってる。チェンバロの指わざと19世紀の油絵的ヴィルトゥオーソの間をつなぐ鍵盤のポエジーではないか。)

そして笑いがある。ギャグですよこれ。ギャグに正しい文法を求めるのは筋違いだ。オランダのニセ貴族、ファン・ビィィトゥホォフェンのいかがわしさ。ファンタジアみたいなソナタに似つかわしいフィナーレ。

[補足]

この楽章も一種の無窮動perpetuum mobileですよね。動き続ける16分音符の濃淡から図柄が浮かんだり消えたり、サラサラ流れるかと思えば、急旋回。というのは、この趣向の定番かもしれません。