言葉とヒトと物 - 実名批判を越えて

何やら、これからは学者もデビューするときに芸名をつけることにしようか、という話が一部で盛り上がっているらしい。

このネタのココロは、

第1段階:ネット上で実名を名指しで批判されるのは嫌だよね

となりますが、もう一段階先があって、

第2段階:最近、次から次へと実名で学者を批判する○○くん、困るんだよねえ

の意味です。

「脱政治的なみかけを共有することによる独特の「社交」」の世界では、どんなに話が盛り上がっても上記の第1段階で止めるのがお作法です。第2段階までネタを割って、会話にその「○○くん」の名前を出してしまうのは野暮、ということになっているので、皆さんよく覚えておきましょう(笑)。

だったら今回は実名なしでいきましょう。実名入りを野暮だと言い張る人文社会科学のトレンド、「ヒト」の登場しない言説分析のお話です。

言葉と物―人文科学の考古学

言葉と物―人文科学の考古学

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ミシェル・フーコーという同性愛の文献学者がいました。彼は、ブルジョワ的なヒューマニズムにほとほと嫌気がさしていたので(ヒューマニズムは異性愛を讃えますからね)、一計を案じて『言葉と物』という本を書きました。

スペインの宮廷画家ベラスケスの絵画などを巧妙に使いながら、古典時代の知は、言葉が物をピカピカに磨いた鏡のように映し出し、物は、言葉という鏡に明晰に映るように整然と配置されていた、と言います。しかし、そこへズカズカと入り込んできたのが19世紀の「人間」たちなのです。奴らは、肉体という不透明な厚味でそこらを占有し、精神という臭い息をまき散らし、鏡をたたき割ってしまったのである。なんと忌まわしいことであろうか、「人間」などというものは、砂浜に描いた顔のように波にさらわれて、消えてしまえばいいのに……、というお話です。

この本が出たのは1966年。学生たちのオヤジ狩りめいた「反抗」の時代ですから、若者たちに、君たちが対抗すべきラスボスは19世紀のヒューマニズムなんだよ、と暗示して、世情を煽ったようなものです。その前に『監獄の誕生』という本も出していますから、フーコーは反体制のカリスマになりました。

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冷静に考えると、フーコーの言っていることは太陽王のブルボン王朝は素晴らしかった、の古典主義を換骨奪胎した新種のフランス中華思想と受け取られても仕方のない枠組みでもあり、見事コレージュ・ド・フランスの教授に迎えられたりしたわけですが、フーコーを見習って「下克上」を達成しよう、フーコーは俺たちがビッグになるためのバイブルだ、ということで、この人の方法がサブカルチャー論に応用されます。

古典時代に「言葉と物」が明晰に照応していた、というのは、実はフィクション、お伽噺です。実際の宮廷は、貴族が色々なものを垂れ流すので悪臭がただよっていたに違いないし、蝋燭の灯は薄暗いので、シワシワでお肌ボロボロの人たちを「この世に降り立った神」と演出するのも容易だった、それだけのことではなかろうか、というように事細かな歴史研究があるようです。

でも、「言葉」だけを取り出して上手に編集すると、明晰さが支配する古典時代を演出することができる。フィクションでいいじゃないか、効果的であれば。ということで、サブカルの下克上はこれでいくことになったわけです。

セックス・ピストルズのような連中を学会の場へ連れてきたら何をしでかすかわからないですし、大学出のお坊ちゃんがストリートチルドレンに話を聞くためにダウンタウンへ潜入したら何されるかわかったものじゃないですから、まず、「我々の研究対象は、言説である」と宣言して、そういう生身の人間をシャットアウトする。そして、言語反映論(言語は現実の反映である)はもう古い、言語が現実を分節するのである、ソシュールを見よ、言語論的転回である、と言っておけば、「言説」オンリーで編集作業へいそしんでも、当面文句を言われずにすみます。

これが、いわゆる文化研究、カルチュラル・スタディーズですね。

フーコーは過去・歴史を扱ったので、18世紀や19世紀の言説を生成した「ご本人」を連れてくることが原理的に不可能だったわけですが、カルスタは、当事者たちを連れてこようと思えば連れてこられるけれども、学者の世界で出世するには足手まといになりそうなので、切り捨てたわけです。

同じ頃、新左翼から転向した学者さんたちが「想像の共同体」を言い出して、国民国家の形成を「言説」だけで論じて、大衆・労働者の運動を切り捨てたのも、事情は同じだと思います。

かくして、同性愛者フーコーのヒューマニズム嫌いは、人文社会科学の世界から「ヒト」をシャットアウトした「言葉」と「物」の遊戯空間にお墨付きを与えることになりました。

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そして文科省の失策によりポスドクが大量発生した「高学歴ワーキングプア」の2000年代のニッポンは、手早く目覚ましい成果を生み出す魔法のツールへと「言説研究」をブラッシュアップする場になりました。

徹底的に作業効率を追い求めなければ激しい競争で他人を出し抜くことはできません。資料を素速く大量に集めて、読み飛ばすには、国内で母国語で完結する「純国産」がベストソリューションですから、テーマは日本のことから適当なものを選ぶのがよろしい(幸い、世間は右傾化・ナショナリズムが話題で、内向きになっているし)。

でも、オーソドックスなテーマは、既に国史学・国文学の膨大な蓄積があるので、おいそれとは成果が出ない。外国から正規ルートで輸入された案件(前近代の日中関係・近代日本の西洋化・戦後のアメリカ文化の影響)については、輸入元本国と輸入先の我が国双方にこれまた膨大な研究があります。比較研究というのは通常の二倍の手間がかかる贅沢な分野、東大教養部へ入れる貴族でなければ、デフレ時代に手を出すのはやぶ蛇です。

ということで、人口に膾炙しているけれども素性のあやしい舶来品が最適なターゲットとして浮上します。前のエントリーで取り上げたラーメンとか演歌とか、というのは、その典型ですね。

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しかし、こうしたテーマで「手早く目覚ましく」を実現するには、大きな難関があります。あやしげな素性をどう処理するか、です。

「素性があやしい」というのは、結局のところ、政治です。当該物件が国内にもたらされる顛末、もしくは、それを国内へもたらしたヒト(たち)が「何か」に巻き込まれているがゆえに、それらは「素性があやしい」と認識されているのだと考えられます。

そうして、2000年代な若手研究者さんの多くがこれをどのように処理したかというと、あと一歩で競争を勝ち抜けられそうに優秀な人たちですから、「素性のあやしさ」がどのあたりに由来するのか、ほぼ概要はつかんでいたと推定されます。でも、そこへ本格的に踏み込むと、とてもじゃないが、「手早く目覚ましく」というわけにはいかなくなる。

こういう場合に一番簡単なのは、開いた扉を閉めて、見なかったことにすることです。(明らかにヤバい原発の実態を知ったうえで、「安全です」と言い張るのと、それはほぼ同型と言える。)

私は、多くの2000年代な若手研究者さんがこれを経験して、そのような忸怩たる撤退と引き替えに、目覚ましい成果と安定したポストを得ることになったのではないかと想像しています。前のエントリーで最後に指摘したのはそのことです。

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これで、このエントリーの冒頭に戻ってきました。

素性のあやしい案件で手早く目覚ましく成果を生み出した人は、日本的な「脱政治的なみかけを共有することによる独特の「社交」」において、特別な地位を占めることができるようです。

社交界的には、素性のあやしい案件に果敢に取り組んだ勇気が賞賛されます。通過儀礼を見事やり遂げ、アイツもこれで一人前になった。しかるべき地位が用意されたり、賞を得たり、名誉がもたらされたりします。

でも、そこは食えない学者社会ですから、周囲の人たちも、おそらくその人が一度開けた扉を閉じたことに気付いているし、でも、気付いたうえで何も言いません。「お前がスネにキズを持つ身なのはわかっている、だからお前も、オレの古傷には触るなよ」というウェットな連帯意識が形成される。旧日本兵の帰還後の連帯意識みたいなもんです。

私は、「学者にもこれからは芸名がいるよね」というジョークの背後に、おおかた、そんな事情があるのだろうと思っています。埋めた物を掘り返されると、きっと都合が悪いのでしょう。

歌手志望であれ俳優志望であれ、とにかく一度は水着でグラビア撮影しないと芸能人がデビューできなくなっちゃてるのと同じように、学者の世界にも、発掘されるべき「お宝」が埋まっている、ということのようです。

以上です。

[補足]

他人の実名を書くと陰湿な社交の餌食になるらしいので、自分自身のことを書いておきます。

大栗裕という作曲家も、東京音楽学校を頂点とする「式楽としての洋楽」からみれば、「素性のあやしい」部類に属するかと思われます。そして5年であれこれ調べるなかで、随分色々な扉を開けることになりました。そして今の私には扱いきれない、と判断せざるをえないことも見聞しました。

論文をまとめるなかで、毎回最後まで悩んだのは、そこです。

見なかった/知らなかったことにはしていません。書いたものを隅々まで精査していただければ、その先に何があるのか、手がかり・道順を隠すことなく示しているはずです。

やってしまったことは元に戻らない。私は、実名で書くことによって、そういう事情をあとで検証できる状態にしておくことも、研究者の責任だと考えます。

演歌やラーメンの話は、不誠実なことをしたら都はるみや日清食品から内容証明で抗議がくるかもしれないと覚悟してやるしかない。

イザヤ・ベンダサンとか、パオロ・マッツァリーノじゃないと書けない、というのは、やっぱりいかんでしょう(←この二人は偽名ですから、学者の先生方が眉をしかめる「実名批判」には当たりませんよね、白石くんも、その気になればルールの枠内で書くことはできる(笑))。