愛について、吉田秀和の「あなた」へ

[啓発する人文学、批評する自分探し、をやってみた。まずは正しい日本の作文として時候のご挨拶から……]

10月に入り、今年は在阪、外来ともに色々面白そうな公演が並び、関西のクラシック音楽にハイ・シーズン感がありそうです。

大阪フィルも、先月の山田和樹は休暇の最後に関西へも立ち寄る感じで、秋というより夏の終わりの演奏会。今月の「ダフニスとクロエ」が、2012/13年冬シーズンの開幕コンサートですね。(今回はじめて、やっぱりこれは立派な作品かもしれない、と思いました。)

そしてその山田和樹をきっかけに勝手にやっております「批評とは何か?」シリーズ(いつのまにかそんな感じになってきた)。遂に「愛」の問題になって参りました。

あ、結局、また貶してしまった。いや、これもすべて、愛情のなせるわざだ。

『ラモー氏の原理に基づく音楽理論と実践の基礎』の書評 ( イラストレーション ) - Le plaisir de la musique 音楽の歓び - Yahoo!ブログ
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NHK「クローズアップ現代」2012年7月23日の吉田秀和追悼特集で、片山杜秀はこんな風に語っていました。

-- 感動から出発して自分の考えたこと、感じられたことを中心に語ってきた。そういう風に言われると、何かこう、考えを押しつけられているような批評になるのではないか、と思えるんですけど、なぜそうならなかったのか……

片山:そこはやっぱり吉田秀和さんは、自分の明察とか閃きとか、それが閃くための仕掛け・教養・知識ってものを信じていたけれど……、でも、クラシック音楽を聴くっていうのは、作品もあれば、演奏もあれば、いろんなファクターがあって、その組み合わせがあって、どれが正解かっていうことは、最後の最後まで、どんな天才にもわからないような芸術には違いない。

そういうなかで吉田さんは、自分はこう思う、それはもちろん自信はあるのだけれども、でも、「本当に、合っているのかな?」っていうニュアンスは常に文章のなかに残して……、上手に書く。

そして、実際にお話するときでも何でも、「ぼくはこう思うんだけど、《あなたは》どう思うんだ」ということを、ものすごくはっきり、直接おっしゃるし……、その……、文章でも語りかけるような……、「ぼくはこうなんだけど、でも、ちょっと違うかもしれないけど、でもやっぱりこうなんだけど、《あなたは》どう思うのか」と。

そういう開かれた批評っていいますかね。……あなたがどう思うか、自分の判断が、あなた、できますか? ってことを問いかけるような書き方をいつもなさっていたと思います。

ここでの我々の文脈に引きつければ、片山さんの考える吉田秀和は、「わたし」と音楽の関係、「わたし」の音楽への愛を語るというよりも……、もちろん彼は、そのような音楽愛を藝として人前に陳列できるだけの仕掛け・教養・知識を有していたのだろうけれども、そうではなく、「わたし」と「あなた」が音楽について語り合う場を設定しようとしていた、ということになりそうです。

しかも、「わたし」の押しつけではなく、「自分の判断が、あなた、できますか?」を問いかける文章であった、と。

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おそらくこれは、片山杜秀がこのところ繰り返し語っている吉田秀和像、フランス的な閃きとドイツ的な論理の一方へ偏ることのない自立した市民の態度の対人コミュニケーションにおける実装、ヴァリアントと見ることができるのでしょう。

天才的直観! 切れすぎた感覚と豊かすぎる感情がいきなり溢(あふ)れだし、核心を鷲(わし)づかみにする。若き吉田が親しく交際した中原中也や愛読したランボーの詩、あるいはヴァレリーのエッセイを思わせる。いきなりブスリと奥まで光を届かすフランス的な明察だ。

ところが吉田はその勢いで走り抜けない。恐るべき閃(ひらめ)きを一瞬炸裂(さくれつ)させたあと、彼はフランス人からドイツ人に豹変(ひょうへん)する。直観が本当か、ドイツのカメラ職人のようにこつこつと石橋を叩(たた)いて渡る。譜例も丹念に使い、いちいち証拠を出して。

吉田秀和の遺産 片山杜秀さんが選ぶ本 - 片山杜秀(慶応大学准教授・評論家) - ニュースの本棚 | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト

「自分の判断が、あなた、できますか?」と問いかける吉田秀和は、明らかにその問いかけの背後にフランス藝術批評的な「恐るべき閃き」を背負っている。彼に問われた「あなた」であるところの私は、そのことを感じ、震撼するのだけれども、あくまでその問いかけの言葉は、ドイツ哲学の如く論理的かつ平明であり、開かれた対話へと、「あなた」であるところの私を誘う形式でなされている。

そしてここに落とし穴があるのかもしれません。

彼に問いかけられた「あなた」であるところの私は、一生懸命、私の内面の在庫をかきあつめて、ああでもない、こうでもないと思い悩み、可能なかぎり論理的かつ平明に、できるところまで語ろうとするのだけれども、どこかでその努力がついえてしまいそうになる。こんなことでは、私を「あなた」として問いかける吉田秀和が、言葉の向こうに背負っているであろう「恐るべき閃き」には、とても、太刀打ちできる答えではない。

ままよ、ええい、こうなったら捨て身の突撃、真珠湾の奇襲作戦以外に、この窮地を脱する道はない!

「霊感なんだよ、霊感。降りて来ちゃったんだからしょうがない」

「愛だよ愛。あたしゃ、こいつに惚れちまったのさ」

フランス的閃きをドイツ的論理で上手に解きほぐし、「あなた」へ平明に問いかける吉田秀和の言葉は、ときとして、そのような愛の拒絶に遭遇するものなのかもしれません。

吉田秀和を強く意識し、彼に問いかけられた「あなた」であることを自覚する者に限って、その人の書く言葉の並びは、吉田秀和と逆の方向へ展開することがあるようです。つまり、フランス的閃きをドイツ的論理で解きほぐすのが吉田秀和の文体だとしたら、窮鼠猫を噛むかの如き応答は、対話的論理で行けるところまでいくのだけれども、最後は、問答無用な「閃き」「霊感」「愛」の所作で話を断ち切ることになる。

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この世界は「閃き」や「霊感」や「愛」によって豊かになっているのかもしれません。でも、思考や対話を強制終了するためにこうした言葉たちを出すのは、誤用、あるいは、概念の恣意的使用、少なくとも、エゴイズムに強く引き寄せる語法ではないだろうか。

「××と考える人もいるかもしれないが、私は○○だと考える。なぜなら……」

という構文と、

「私は○○と考える。(もちろんこれは、××と考える人を貶めるものではないが。)」

という構文は、似ているけれど大きく違う。前者は次へ思考が続くけれど、後者は、断定したうえに、追加の留保で防御の姿勢に身を固めて籠城している。世の中には愛に突き動かされて門を開く人もいれば、愛の名の下に門を閉ざす人もいる。(海に面した南向きの斜面は温暖で、雪に閉ざされた北国の冬は厳しい、みたいなことか。)

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ぼくはこう思うんだけど、でも、ちょっと違うかもしれないけど、でもやっぱりこうなんだけど……21世紀の愛はいずこへ。

(吉田秀和に「あなた」と話しかけられることは、呪いなのか? 悪霊退散?! ここでは日本語の呼びかけ・名指しの欧米語の類似話法とは異なる働き、「あなた」という呼びかけを vous の二人称の翻訳として用いることがもたらす何かによって、事情がより複雑になったりしているかもしれませんが、ひとまずここまで。)