フランスについて、世界の片隅で「作曲は教えられない」と叫ぶ獣

[白石知雄が最も似合わないお題で書くシリーズ第2弾]

自分がパリ音楽院でさほど優秀な成績を得ることができなかった和声法と対位法、いわゆる「フランスの正統的なエクリチュール」、を東京藝術大学で懇切丁寧に教授した高浜虚子の息子は、作曲家を志す者たちに、「作曲は教えられない」と言うのが口癖だったと伝えられている。

真に「作曲」の名に値する営みがいかに困難であることか。この言葉は、それが凡人には叶わぬ望みであり、手の届かぬ高みにあることを告げている。話者の謙虚な表白であり、深い諦念とともに、話者は、「作曲という営みへの尊敬の念」を弟子に伝える。「作曲」を教えないかわりに、それへの深い敬意を擦り込む屈折した教育的指導である。

池内友次郎は、分際をわきまえた人格者であり、後進に進むべき道の困難を告げる有能な復習教師であったとひとまず言える。

それでは、人は教えられないものをどのようにして得るのだろうか?

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教え/学ぶ、という平和的な回路を断つことは、暗黙のうちに、「力づくで奪い取れ」と言っているようにも見える。

革命、政権奪取、ヘゲモニーの交代、血の祝祭である。

フランスは1789年に「革命」を発明して、自由・平等・博愛の三点セットとともに世界各地へ輸出した国なのだから、「作曲を強奪する」という発想は、それほど突飛な取り合わせではないかもしれない。ブーレーズは、なるほどそのような意味でフランス的な人物だったのかもしれない。

しかし一方で、フランスには「文明国」という建て前がある。「強奪」はエレガンスに欠ける。エスプリが感じられない。フランス的というより、ハリウッドの活劇めいている。そんなものはユダヤ商人に任せておけばいい。我々のやることではない。

躊躇する者の耳元に、いかにも訳知り顔にささやかれるのが、「凡人は模倣し、天才は盗む」という格言、万引きのススメ、である。

顔色一つ変えることなく偽造と剽窃だけで地位を築いたラヴェルを思い出せ、ピカソやストラヴィンスキーの変節に次ぐ変節こそが、パリの処世術だと心得よ。小説「贋金づくり」を読み、映画「スリ」を見よ。作曲は講義室で起きているんじゃない、現場で行われるのである。

女癖の悪い野心家、怠惰で傲慢な猫を思わせるドビュッシー。

メシアンを知り合いからちょろまかし、何でも「いただき」の映画界で育った武満徹。

教師が育てたわけでもなければ、学校の価値観に従順なわけでもないこうした不良たちを世間は好む。彼らは、ひとたび成功した暁にはスターになる。教師のあずかり知らないところで、親はなくとも子は育つ。

自らは決して不良行為へ手を染めることなく、弟子を強奪と万引きへ着々と追いつめる復習教師と、養子縁組で「教えられない藝」の名跡を残し、接ぎ木を繰り返す家元と、どちらが野蛮で、どちらが文明的なのか。

日本におけるフランス派、池内友次郎は前者に梶を切った。私には、野蛮だなあ、としか思えないのだが、これもひとつの「野生の思考」なのか。

[……やっぱりこういう気障な文体は性に合わないので、ここで打ち切り。続きは、いつか大久保賢さんが書いてくれることでしょう。普通の音楽史に出てこない戦後のパリ音楽事情はよく知らないし、某U先生(←素晴らしい室内楽ピアニスト!)に取材して描かれたと伝え聞く「のだめカンタービレ」のパリの音楽留学生たちは、みんなやることはやるけど善良な個人、に見えます。野平一郎先生や酒井健治さんが「強奪」もしくは「万引き」の人だとは思えないので、今では何かが変わっているのでしょう。小鍛冶邦隆さんは、いざとなれば果敢に行動しそうだけれど……。]