妻は音楽家 - 戦後日本の音楽一家の構造

尾高尚忠が1951年に36歳で急逝(N響が忙しすぎて過労で倒れたように見える)したとき、次男の忠明は1947年生まれだから3歳か4歳だったことになる。次の大阪フィルの音楽監督に決まっている指揮者で、兄は作曲家だ。

私の印象では、尾高家の家族構成が辻井市太郎家とかぶる。尾高尚忠が戦中戦後の大変な時代のN響を指揮者として支えたように、辻井市太郎はクラリネット奏者から指揮者・楽団長になって、大阪市音楽隊(大阪市音楽団)が野外演奏主体の軍楽隊スタイルから戦後のコンサートバンドに脱皮する舵取りをした。で、兄は作曲家、弟は吹奏楽指揮者になった。

戦後の「民主化」された日本に、洋楽を家業とする一家が厳然・公然と存在する。尾高家と辻井家は、東と西の戦後音楽一族のシンボルに見える。

(尾高家は、尾高尚忠の上の代まで遡ると、柴田南雄の家に似た、ずっと話が大きくなりそうなエリート一族でもあるけれど。)

辻井市太郎は長生きして、長男英世の吹奏楽作品を大阪市音楽団で初演したこともある。まるで、朝比奈隆が息子千足をクラリネット奏者/指揮者として「七光り」で後押ししたのと同じようなところがあるわけだが、尾高家では、尚忠の妻が音楽家だったらしいとウィキペディアには書いてある。

大澤壽人や大栗裕の遺族から音楽家は出ていないけれど、尾高家から音楽家が出た。

音楽家が惜しまれつつ早くに亡くなった場合、そのパートナーが音楽家かどうか、というのが、死後の顕彰や引継ぎで鍵を握る印象がある。どちらが良いか悪いか、という話ではなく、戦後の日本では、音楽が「家業」になっていくかどうか、音楽家のパートナーの振る舞いがキーポイントになったように見える。

そんなの当たり前じゃないか、と言われるかもしれないが、そうでもない。

オペラ作曲家のウェーバーは妻がプリマ・ドンナだったが、子どもたちから音楽家は出ていない。(妻カロリーネ自身は、ドレスデンで長生きして、のちにマイヤベーアやマーラーにウェーバーの未完のオペラの補作を依頼するなど、音楽の世界とずっとつながっていたのに、である。)シューマン家も、クララがブラームスと一緒に夫ロベルトの没後、その顕彰活動に努めたけれど、たしか、子どもたちは音楽家にはなっていないですよね。

ワーグナー家のように、19世紀も終わりになってから、妻・子・孫で劇場を運営するのみならず、演出家として遺族が舞台に直接かかわるのは、ドイツでも随分特殊なことだったように思えます。バイロイトの劇場と巨大な作品群を「遺産」として継承してしまったから、ということが大きいとは思いますが、劇場の運営方法がこういうことになったのは、ひょっとすると、リヒャルトの妻コジマがマリー・ダグー伯爵夫人とリストの娘でベルリンのビューロー伯爵家に預けられた貴族の子だったせいではないか。

ワーグナーは「劇場の王」になった(バイエルン国王やプロイセン皇帝をひざまずかせるような)と岡田暁生は言うが、それは、王様とその家名を継承する貴族の作法を知る女性が彼のパートナーだったからじゃないかと思うのです。

こうしたドイツの19世紀(教養市民の時代と言われるけれど、なかには貴族的な遺産継承をする家もあったわけだ)のケースを踏まえたときに、それじゃあ、戦後日本はどういう社会だったことになるのか。

作曲家のパートナーが、その作曲家の死後どのように振る舞って、遺族はどういう人生を送ったか。「そんなことは、作品そのものと無関係なのぞき見趣味だ」と言われるかもしれないが、戦後日本の文化としての音楽(最近の流行り言葉を使えば、ミュージッキング=動詞としての音楽)の一面を見る恰好のトピックではないかと私は思う。

(ちなみに、息子を音楽家に育てた朝比奈隆のパートナーも音楽家、元大阪音楽大学教授のピアニストですね。)