井上道義が吹奏楽を振る

大阪音楽大学の100周年記念行事の締めは、井上道義が指揮する吹奏楽特別演奏会。

びわ湖ホールの「さまよえるオランダ人」に行かねばならなかったので、私は午前中の「大阪俗謡による幻想曲」のリハーサルを聴くことしかできませんでしたが、本番も盛況だったようですね。

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「俗謡」の今回の解説は、大栗裕がどういう経緯で作曲家になれたのか、そして大栗裕と朝比奈隆(今回の指揮者、井上道義さんが現在首席指揮者をしているオーケストラの設立者)の関係はどういうものだったのか、というところを中心に書かせていただきました。

舞台に乗っているのは現役の学生さんですし、客席には吹奏楽をやっている中高生の皆さんが集まってくださっていたはず。大先輩たちの「来し方」を振り返ることが、これから音楽を続けていこうとする若い人たちの「行く末」の参考になれば、大学の100周年という節目の音楽会で地元オケの指揮者と共演することが、前向きな意味を持つのではないかと思いました。

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プログラムには書きませんでしたが、道義さんというと、私が学生のころ、京大オーケストラでマーラーの9番を振って、そのCDの評が『レコード芸術』に出たことがありました。その少し後には、NHKで「第九」を学ぶ連続講座形式の番組に早稲田のオーケストラを使ったこともありました。

アマチュアや学生と「本気で接する」というのは、誠実な音楽家であれば誰もがそうだと思うのですが、その「本気」のアングルが独特で、今回も、道義さんらしい取り組みだったのではないでしょうか。

1980年第28回全日本吹奏楽コンクール高校の部で、丸谷明夫先生(現在、大阪音楽大学客員教授)の指揮する淀川工業高等学校(現淀川工科高等学校)が自由曲に大栗裕「大阪俗謡による幻想曲」を選び、明るく生き生きした演奏で2度目の金賞を得たことは、関係者に強い衝撃を与えて、コンクールの主役が中学生から高校生に移り、1980年代の吹奏楽で「邦人作品」が大流行するきっかけになったと聞いています。

大栗裕は1982年4月18日、62歳で亡くなり、自作が多くの団体で演奏される様子を見ることはできませんでした。でも、「自分が死んでも、曲は残る」が先生の生前の口癖だったそうです。大阪音楽大学100周年記念行事のしめくくりとして、リニューアルした2代目フェスティバルホールで、かつて朝比奈隆が育てた大阪フィルハーモニー交響楽団(大栗裕の遺品資料を集めた「大栗文庫」は2015年4月から同団が所蔵管理しています)の現在の首席指揮者、井上道義さんが大栗裕の代表作を指揮します。大栗先生にお聴かせしたかった歴史的瞬間です。

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吹奏楽による管弦楽作品の編曲演奏は、オペラのメドレーなどを含めれば、「ドン・ジョヴァンニ」の終幕で描かれているようなハルモニームジーク(宮廷の管楽合奏)まで遡りますが、現在の直接の起源は、管楽器によるオーケストラを目指したパリのギャルド・レピュブリケーヌ(共和国親衛隊楽団)や、北米の大編成スクール・バンド(いわゆる「シンフォニック・バンド」)の取り組みだと思われます。

日本では、北米のバンド事情が紹介され始めた1960年代に、演奏会形式の吹奏楽が本格化します。東京佼成ウインド・オーケストラの結成がちょうど1960年。学校や職場のアマチュア楽団による定期演奏会が軌道に乗るのは、全国各地に公共ホールが建設された1970年代です。

とはいえ、交響曲の全曲演奏は異例です。

たとえば、陸軍第四師団軍楽隊の流れを汲む大阪市音楽団(現Osaka Shion Wind Orchestra)の第1回定期演奏会は1958年で、当初から、辻井市太郎の指揮でバレエ音楽や交響詩、吹奏楽オリジナルの交響曲の全曲演奏に意欲的に取り組んでいますが、管弦楽のための交響曲の全曲演奏は、1989年のサン=サーンスの交響曲第3番(第70回、フリーセン指揮)が最初で、その次は12年後の2001年、ベルリオーズの幻想交響曲(第83回、渡邊一正指揮)です。

しかも今回はショスタコーヴィチ。重戦車のような金管の最強音だけでなく、息を潜める弦楽器の最弱音が聴き手に訴えかける20世紀の問題作に、吹奏楽で挑戦します。

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