本日神戸で大栗裕「管弦楽のための協奏曲」が演奏されました。
資料からわかること、推測できることは解説に書かせていただきましたが、実際の音を聴くと、なぜ大栗裕はこの時期にこういう曲を書いたのか、改めて色々気になることが出てきました。
1960年代はいわゆる「現代音楽」の最盛期で国内外各地の音楽祭等で色々な作品が出て、日本のオーケストラも様々な機会に日本の作曲家の新作を取り上げて、オーケストラの書法が劇的に変化した時期だと思う。大栗裕のデビュー当時の「大阪俗謡による幻想曲」や「赤い陣羽織」「夫婦善哉」は恰好がついているし、1963年のヴァイオリン協奏曲はかなり頑張った「バルトーク様式」だけれど、「管弦楽のための協奏曲」は、やや苦しい。1970年のオーケストラ音楽としては色々足りない印象が否めないと思います。
で、ひょっとすると、無理矢理にでも一曲書かなければならない外的な事情があったのか、と心当たりを調べ直してみたのですが、どうやら、そういう形跡はなさそうです。
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例えば、この作品はハープとチェレスタを使う贅沢な編成で、今回の大阪フィルの演奏会は、最後に「くるみ割り人形」組曲を置いてハープ、チェレスタを有効活用していましたが、朝比奈隆が1971年に「管弦楽のための協奏曲」を東欧で指揮したときのカップリングは、あまりそういうことを考えてはいなかったようです。
1971年1月8、9日ワイマールの演奏会は、大栗裕のオケコンのあとにグラズノフのヴァイオリン協奏曲が来て、後半はブラームスの交響曲第3番。(たぶん、かなり長い演奏会になったと思う。)
1月14、15日コトブスの演奏会は、大栗裕のあとがドヴォルザークのチェロ協奏曲とレスピーギ「ローマの泉」。(協奏曲のあとに休憩だとしたら前半が長すぎるし、協奏曲の前に休憩だと後半が長くなる。バランスの取りにくい3曲ですね。)
そして2月16、17日エアフルトは大栗裕のあとにハイドン「太鼓連打」で後半はブラームスの交響曲第3番。
3月1、2日ドルトムントの演奏会は、大栗裕のあとにラフマニノフのピアノ協奏曲第3番が来て、後半がシベリウスの交響曲第2番。(これも長い演奏会という印象ですが、なんとコンチェルトが今回の大阪フィルと同じです。しかもソリストはホルヘ・ボレット。)
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こうして演奏会のプログラムを見直すと、どうやら、大栗裕の新作には、「大阪俗謡による幻想曲」などと同じように10〜15分程度の序曲、コンサート冒頭のオードブルが期待されていたように見えます。
ところが大栗裕は20分を越える全3楽章の作品を書いた。
なおかつ、朝比奈隆はブラームスやドヴォルザークと組み合わせて、ハープやチェレスタは大栗裕のみで曲目を組んでいます。ブラームスの3番がメインだとチューバも要らない。エアフルトの「ハイドン/大栗/ブラームス」というプログラムだと、大栗作品だけが突出して大がかりですね。
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どうやら、作品のサイズ(演奏時間・編成両面の)等を指定したオーダーがあったわけではなく、「たぶんまたオーバーチュア・サイズの単品を書くのだろう」と思って朝比奈隆が待っていたら、予想外に大きな作品が出てきてしまった。大栗裕が(誰に頼まれたわけでもなく)大きいものを「書いてしまった」、ということだったように見えます。
事前に国内で演奏されていないのは、おそらく、ギリギリまで書き上がらなかったから国内での演奏をセッティングしようにもできなかった、というでしょうから、そうすると、期日が迫るなかで、大栗裕が「今書ける/書きたいのはこういう曲で、他のアイデアはない」という風に(珍しく)我を通したのでしょうか?
出来映えの如何にかかわらず、オケコンを1曲書かないとここ(=「大阪のバルトーク」みたいに言われてしまう環境)から先に進めない、という心境だったのかもしれませんね。
(大栗裕の1960年代は、自身がほとんどなじみのない京都の六斎念仏で1曲書く企画を朝日放送のプロデューサーから持ち込まれて「雲水讃」を書き、これがきっかけで「大阪のバルトーク」と呼ばれてしまう、という「巻き込まれ型」な状況ではじまって、そこからの流れは、「大阪万博」に忙殺された年の終わりの唐突で謎めいた大作であるところの「管弦楽のための協奏曲」で半ば強引に断ち切られる。そういうストーリーを想定することができるかもしれません。そして、そのあとの70年代の大栗裕の仕事は、歌劇「ポセイドン仮面祭」にしても、「大証100年」や「聖徳太子讃」のような交声曲にしても、大阪国際フェスティバルのためのバレエ「花のいのち」も、ほとんど知られていない曲ですが「飛翔」(朝比奈隆音楽生活40年のお祝い)、「樹海」(大量の邦楽器を使うコンチェルト・グロッソ)のような管弦楽曲も、大阪市音楽団のための「神話」も、異形の大作が妙に状況にはまる幸福な新展開と見ることができるのかもしれません。)