反動のレッテルを恐れぬサロン音楽論のしたたかな構え

ショパン、リスト、クララ・シューマン、メンデルスゾーンらは、パリのサロンをスプリングボードとして利用しながらも半私半公の社交界に批判的なスタンスで、この「批判的なスタンス」こそが近代の意味での「芸術」であり、彼らの構えは、「音楽(器楽)の国」として君臨した世紀転換期のドイツ帝国や教会・王党派を押さえ込んだ第三共和政以後のフランス、そしてロシアと東アジアと新大陸が台頭した20世紀の大衆化した新体制によってキャノナイズされたわけだが、その分、彼らの側からパリのサロン/社交界を眺めると、どうしても、かゆいところに手が届かない記述になってしまう。

著者が成功したのは、当時のジャーナリズムの社交界消息記事や回想録等を丹念に読み解くだけでなく、ヅィメルマンのサロンという厚い記述が可能な対象を見つけて、そこに焦点を当てたからだと思う。

しかしその分、オルレアン家(当時の王家)のサロンの輝きというような「共和国フランス」にとってはあまり都合が良くないかもしれない案件が浮上したり(ウィキペディアで調べると、オルレアン家は今も続いていて、ナポレオンの系譜を正統と見なす一派やブルボン家を正統と見なす一派と並ぶフランス右翼(王党派・王政復古派ですね)の支柱のひとつであるらしい)、女性が切り盛りするのが通例であったがゆえにジェンダー論的な関心を呼ぶことのある音楽サロンに関する記述が、当時としては例外的に男性(パリ音楽院教授)の主宰するサロンによって代表されることになってしまった。

東京芸大(明治以来の日本の洋楽受容の拠点)は旧士族の子女が通う学校という一面があったわけだから、王党派や男性音大教授を輝かせる音楽史家の登場は、ひょっとすると、東京芸大の悲願、という面があるかもしれない。

また、もしかするとこういう研究テーマは、フランスでは(フランスでも)火中の栗を拾うようなものだろうから、東アジアから来た日本人だからやれた、ということがあるかもしれない。

フランスの大学に提出する学位論文としてであれば、「ヅィメルマンのサロンの研究」は、「これがサロン音楽(の代表)だ」というノリの概説ではなく、未調査のケーススタディとして受け止められるだろうと思いますし。

著者は、同時に東京芸大からパリ音楽院ピアノ科の研究で学位を得ていて、とてもアクロバティックでしたたかな人だなあと思いました。

パリのサロンについて、知らなかったことを色々教えられました。

でも、ヅィメルマンのサロンの充実は、7月政権時代のパリの代表的な趣味と見ていいのか、むしろ、来たるべき19世紀後半(「ヴィクトリア朝的」と言われるような)の男性共同体的な「音楽イデオロギー」(フランス流絶対音楽論とも言えるようなダンディズム)を準備したのではないか、という気がしないでもない。(東京芸大の前身、東京音楽学校は、まさにそのような19世紀後半の価値観で運用されていたのだろうと思うし、金沢出身でピアニスト金澤攝氏と協力関係にあるらしい著者は、大久保賢と同じ風土から出てきた人なのかなあ、という印象を持ってしまう。)

それから、リストのオーバーアクションになりがちなピアノ奏法(たぶんベートーヴェン流の手を広げてオクターヴを掴む構えで腕をスライドさせる奏法の進化形)とタールベルクの(中音域のメロディーを両手で交互に取るが故に)身体の軸がぶれない奏法(ポリフォニックなオルガン演奏の応用なのではないか)の関係については、フェティスとリストの論争だけでは終わらない鍵盤楽器文化の広がりのなかで考えたい案件だなあと思いました。「オルガンの国」フランスでタールベルクが歓迎されたのは、さもありなん、と思います。

パリのサロンと音楽家たち 19世紀の社交界への誘い (5023)

パリのサロンと音楽家たち 19世紀の社交界への誘い (5023)