パリ音楽院とスコラ・カントルム:本当は恐いフランス音楽史?

[追記あり→かなり長くなりました。→小見出しをつけました。→「1.」を大幅に加筆修正しました。]

わたしなんかより、もっとちゃんと事情を知っている人がいるはずですし、余計なおせっかいをする奴だと思われたくないから黙って様子を見ていたのですが、一向に誰もなにも言わないので、書きます。

ジャン・パスラー(パリに留学していた頃、笠羽映子先生なんかと一緒だったらしいですね)の19世紀末パリ音楽文化論は少なくともわたくしにとってとてもいい勉強になった、と何度か書いておりますが、

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130605/p1

ご紹介した本を実際に読めばすぐにわかるように、ここで扱われているのは、要するに、パリ音楽院の教授たちとスコラ・カントルムのダンディは何が違っていたか、ダンディは(当時のフランスの共和制をよく思わない教会関係者や王党派に結構な数いたであろうような)右翼の復古主義者だったのか、違うんじゃないの、というお話です。

1. パリ音楽院の「進歩」とグランド・オペラの繁栄

パスラーは、党派的にならずに整理しようとして、それで、前にご紹介したように、まず、「実はパリ音楽院は保守ではなかったかもしれない」説を出してくるんですね。

パリ音楽院はフランス革命で時間軸をリセットして、そこからゼロベースで(ということはケルビーニ以前を知らなくても大丈夫なように)カリキュラムを組んでおり、だから、実力主義で農民出身[?←と書いてある本があったのだけれどもちゃんと確認はしていない、誤訳かも、の疑念がなくはない]のデュボワが院長へ登り詰めることもできた。言ってみれば、戦前の陸軍学校が薩長閥ではない東北出身の方々に立身出世の道を開いて、2.26事件の憂国の青年将校の皆様を生み出したのに似た感じなのかもしれません。

この見方はとても想像をかきたてて面白い。

ただ気になることがあって、もう一方で、こうしたいわばエリート主義の「音楽官僚」の絶えざる切磋琢磨とは別に、19世紀のパリ音楽院作曲科はオペラ座のグランド・オペラを頂点とするオペラ作曲家の養成機関だった、と指摘するのをよく見かけます。

で、よくよく考えると、この話との関係がよくわからないのです。音楽院はオペラ座に積極的に協力して、そのようなカリキュラムを組み、人材を供給していたのか、それとも、音楽院は少なくとも建前上は独立孤高を保っていて、オペラ座の側が勝手に(もしくは阿吽の呼吸で)音楽院から優秀な人材をスカウトしていたのか。

もし、音楽院とオペラ座が明白にリンクしていたと言えるのであれば、話はとてもすっきりしそうです。

19世紀ブルジョワの音楽文化は、ドイツ市民たちのやや観念的な物言いを主な典拠として「教養」の理念に支えられていたと言われますが、この線で理解すると「進歩主義」はあんまりはっきり出てこない。せいぜい「教養」の理論化にヘーゲルの弁証法が使われるとか、産業技術が積極的に取り入れられたとか、世紀後半には実証主義的な音楽史記述がはじまったとか、それくらいの話で終わります。でも、オペラ座の最先端・最大・最強の娯楽であったグランド・オペラと、国家の威信を賭けた高等教育機関がタッグを組んでいたのだとしたら、いわばハリウッド映画とシリコンバレーの情報産業が一体になるようなものだから、さぞかしすさまじい「進歩」をパリの音楽文化は謳歌していたのであろう、と想像できます。そして、ヨーロッパの音楽文化の中心地は、「音楽の国ドイツ」(苦笑)ではなく、グランド・オペラという一大娯楽産業(ロッシーニもヴェルディもワーグナーも、この個人の才覚では太刀打ちできない強力・巨大なシステムとの距離・関係を意識せざるを得なかった)を頂点とする「19世紀の首都パリ」であり、パリ音楽院の作曲家教育は、ハリウッドのシナリオ術やバークリーのポピュラー音楽メソッドのように、産学協同の理想の形を実現していたのだということになりそうです。

そもそも、ケルビーニとかグレトリーとかメユールとか、パリ音楽院創設前後の革命期の人たちは、「それなり」などと呼ぶのは失礼な当時を代表するオペラ作曲家ですからね!

(管弦楽を効果的に使う音の演出力、フランスのオペラの演劇面での充実ぶりをベートーヴェンやウェーバーは意識せざるを得なかったし、シューベルトのオペラも同じようなスタイル。当時のドイツの劇場では、フランスのオペラ(当時の分類では台詞が入るので「オペラ・コミック」、喜劇ではないけれど……)をドイツ語上演するのが、イタリアオペラと並ぶレパートリーの支柱でした。ちょっと前まで多くの都市がナポレオンのフランスの支配下だったですしね。ヘルダーとか、文学者はお気楽に「ドイツのVolk」と言うけれど、ドイツ諸都市のオペラ制作の現場は、19世紀に入っても「(諸国の)趣味が混合」しつづけています。)

こうした革命期の人たちの存在を原点としてパリの音楽システムが構築され、そこにユダヤ人の多国籍興行集団が食い込んで繁栄したのがグランド・オペラ。プロイセン/ドイツ帝国が名実ともに「音楽の国」になるのは、そんなフランスに戦争で勝った世紀転換期のことに過ぎない。イタリアでも、プッチーニやヴェリズモ一派はドイツ=ワグネリズムが入ってきたあとの人たちで、だからオペラのスタイルが違うと考えればいいんじゃないか(番号をやめた通作で、アリアとレチタティーヴォの区別を隠しているし、ベル・カントの諸技法を発揮する場がなくなって、もはやバレエは入らず、群衆のスペクタクルを含む政治劇でもない)。作曲家も歌手もヴェリズモ以後でがらりと変わってしまったせいで、20世紀の側から眺めると、グランド・オペラがヨーロッパに君臨した時代が見えなくなっているのだと思います。

でも、本当にそういう風にグランド・オペラと音楽院は連携していたのかどうか。それとも、音楽院に批判的な人たちがやっかみ半分に「癒着」を噂していただけなのか……。オペラと音楽理論の両方を語れる人があまりいないかもしれないので、両者の接点を探るのは面倒かもしれないのですが、そうだったら面白いと思う反面、半信半疑なところが残ります。

まずは、ここを誰かはっきりさせてほしいです。

[以上、大幅に加筆修正しました。]

2. 「ラヴェル事件」でパリ音楽院は震撼したか?

そしてそんな風にオペラ座と連携(癒着?)していたのかもしれないパリ音楽院の20世紀初頭の話題といえば「ラヴェル事件」。

まず確認しておきますと、ラヴェルは学生時代から作品が注目されたとされますが、「古風なメヌエット」(←Antique!)とか「亡き王女のためのパヴァーヌ」(王女!パヴァーヌ!)とか、デビュー当時のピアノ曲には保守派・復古派への目配せが感じられます。ちょうど福田和也や與那覇潤のように頭の良い野心家の新人が時代の空気を読んで「保守」で論壇デビューしたようなものでしょう。

「水の反映」で先輩のドビュッシー(←当時ようやく長期低迷・低空飛行を脱しつつあったところ、私生活では妻・愛人との関係が泥沼化)にアイデアをパクられたと言ったって、自分の「水の戯れ」はリストの「エステ荘の噴水」を下敷きにしているんだから、怒れた筋合いじゃない(笑)。アンチを気取る在野の音楽家たちの動きは、狭い人間関係で足の引っ張り合いをする闇黒面を含んでおり、「敗戦国フランス」の世紀転換期アングラ芸術界は、戦後日本の前衛アートに負けず劣らず「悪い場所」(椹木野衣)です(笑)。

日本・現代・美術

日本・現代・美術

武満徹は、「悪い場所」の泳ぎ方をドビュッシーに学んだと考えればいいのだと思います。

そしてそんな時代の寵児だったのかもしれないラヴェルがローマ賞に連続落選したというので、音楽院長のデュボワがボコボコに批判されるわけですが、これはなんだか、日本が戦争に負けたときに陸軍の将校さんが諸悪の根源と決めつけられてしまったのを連想させる。3度目の応募時はラヴェル自身がもうやる気をなくしていたんじゃないか、という観測もあるようですし、デュボワは業界政治のワナにはまった感じがします。

真面目一筋で苦学たたき上げの人は、通常こういうときに上手に世渡りできず、一夜にして掌を返したように論調を変えるジャーナリズムに翻弄される。

言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)

言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)

おそらく「パリ音楽院は保守的だった」というイメージはこのラヴェル事件が有名になって、それで広まったんだろうと思うのですが、でも、この国の音楽文化のがっちり組みあげられた制度面を考えると、この一件がどれほどのものだったのか、在野のアングラ的な新興グループが巻き起こしたゲリラ的な一挿話でしかないし、彼らの言い分にのっかって音楽院が保守的だった、と信じるには当たらないような気がするのです。

むしろ、メック夫人を通じてロシア音楽を仕入れたり、ガムランに凝ったり、マラルメやショーソンに接触するドビュッシーのほうが、「不良」度合いは濃密だし、だからこの人はなかなか表舞台へ浮上できなかったのでしょう。

ただしドビュッシー的な「不良」性が音楽院に受け入れられなかったのは、音楽院が保守的だったというより、音楽院という制度を支える歴史の直進・進歩の観念を失調させる病原体のようなものだったからだと思われます。

美術におけるアカデミーと印象派の対立になぞらえて、音楽における印象派(このレッテルをドビュッシーが嫌がったのは有名だし、ラヴェルは古典のイミテーション→印象主義→悪魔的超ロマン主義のヴィルトゥオーソ→スペイン趣味、古代地中海趣味、似非オリエンタリズム→晩年にはジャズ(ガーシュウィン)にも手を伸ばす、と次々衣装を着替えるので「イズム」に括るのは意味がなさそう)を原告に見立てる音楽院の保守性批判キャンペーンは、ジャーナリズムの煽りに過ぎない可能性がありそうです。

3. 音楽教育の「対案」を出す - スコラ・カントルムのヴァンサン・ダンディ

以上のように、19世紀のパリ音楽院については部外者・門外漢にとってどこかすっきりしない感じが残るのですが、ともあれ一方のスコラ・カントルムでダンディが打ち出した新機軸は、パスラーによると、音楽家が学ぶべき「歴史」の起点を思い切って前へずらしてグレゴリオ聖歌から始めたこと、技術の前に芸術哲学があるべきだと考えたこと、技術を小分けにしないで、実作に即して(演奏込みで)総合的に教えたことなどになるようで、特に、歴史に沿って時代ごとの様式を順に教えたことが、パリ音楽院のやり方と違っていたようです。

歴史は直線ではなく螺旋状に進む(過去へ向かうベクトルと未来へ向かうベクトルが拮抗しながら歴史が作られる)とか、民謡は宗教音楽と密接な関係があるとか、彼の主張・洞察も興味深い。ドビュッシーやラヴェルのやったことが学校・システムの外へ出て行く、外へはじき出されるしかない動きなのに対して、ダンディのやったことは、同じ教育という土俵の上での対案に見えます。

ひたすら「前」を向いて文明国を誇っていたフランスは、ドイツに戦争で負けた19世紀末にようやく自国の「過去」を「発見」した、ということだと思います。(ダンディはラモーのオペラの楽譜の校訂&上演などもやっている。)デビュー当時のラヴェルはそういう動きに機敏に乗ったわけです。そういう歴史意識とワグネリズムのような前衛を融合させて、教育にも熱心なところは、日本で言えば戦後東京芸大へ迎えられた伊福部昭に似ているかもしれませんね。

そしてパリから戻った小鍛冶邦隆さんの本や発言を読むと、現在の彼の地では、ダンディらが当初は在野で提唱した歴史主義が既に音楽院のカリキュラムに組み込まれて、かなり洗練されたやり方で定着しているらしいことが感じられますが、そうなると逆に、池内友次郎が「パリの流儀」として広めたメソッドが、どうしてああいうものだったのか、ということが、部外者である私にはわからなくなってしまうのです。

4. 池内友次郎はパリでいったい何を学んだのだろう……

乱暴に図式化すると、可能性は2つあって、

ひとつは、言葉は悪いですけれど池内友次郎が「空気の読めない人」だったから20世紀に入ってパリ音楽院が変わりつつあったことに気がつかないで、ああいう、どちらかというと古いスタイルのメソッドだけを学んでしまって、それを日本に持って帰ってきた可能性。

もうひとつは、パリ音楽院の改革と言われるものが、実はデュボワのあとにフォーレ(←音楽院生え抜きではなく、ニデルメイエールという伝えられる断片的な情報からだとカトリック系保守だと思しき人の寄宿学校の出身、ちなみに私は Fauré をフォレと書く趣味はない、だったら Bach はバハで、Hummel はフメルなのか?)が院長に就任したからといってそれほど急速に進んだわけではなくて、池内友次郎が留学した頃には、まだ、相変わらずああいうものだった可能性。

池内がダンディの『作曲法講義』(スコラ・カントルムの教科書だったらしい)を1965年に訳しているから、ますます何がどうなっているのかわからないのです。彼は、パリ音楽院とスコラ・カントルムの関係をどういう風に理解していたのでしょうか?

そしてスコラ・カントルムでダンディに学んだ高木東六は、どういう立ち位置だったのか?

(そしてグランド・オペラが第一次大戦で凋落したあとのパリ音楽院は、いったいどういうキャリア・パスを想定していたのか?)

フランス派な方々には、もういいかげん、奥歯に物の挟まったような言い方でなく、このあたりのパリと日本にまたがる「歴史」をズバッとはっきりさせてほしい気がするのですけれど、どうなんでしょうかっ!

そこがはっきりしないから、「歴史的価値」と言われたってケルビーニをどう捉えたらいいのか、文脈がつかめないわけで……。これは、同じ出版社さんが出した本で言えばウルトラセブンとシューマンの関係の100倍くらい言葉を尽くした説明が必要なのではないでしょうか。そこをドキュメンタリータッチでレポートしたら面白そうな予感があるのですけれど……。

(院生時代の吉田寛先生級に文献をガシガシ読む馬力が要るかも知れませんが。)

池内友次郎とか、明治で「負け組」になったお侍さんの末裔が「文化で勝つ」ことを志したときに、フランスのナショナリズムは格好の心の拠り所となり、しかも、「偉大なるパレストリーナの直系」(自称だが)という血統書つきのメチエが漏れなくついてくるのだから、パリのコンセルヴァトワールは素晴らしい、これぞ西欧の大権現・東照宮の本地である、みたいなことになったのでしょう。

カナダの負け方、フランスの負け方 - 仕事の日記(はてな)