ネットワーク上のコミュニケーションに善悪は成り立つか?

ややこしい話なので、順に解きほぐしていきたいと思います。

問い1:作家Aが死んで、この作家の作品を出している出版社の担当編集者が葬儀を仕切ることになった。告別式を誰に通知するか、その名簿の作成も彼が行った。

そして数日後、その作家の知人が個人ブログでその作家の思い出を書いた。

編集者は、出版社のブログに「○○さんが心のこもった追悼文を掲載してくださいました。作家Aの作品を絶賛しています」と投稿した。

……私個人の感覚では、無神経だと感じるのだが、皆さんはどう思われるだろうか?

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それでは、「死」という深刻な事態ではなく、おめでたいことであればいいのだろうか?

問い2:作家Aが一冊の本を書き上げて、献本は出版社がサービスでやってくれるというので、「著者代行」として出版社で一括してやってもらうことにした。担当編集者は作家から献本リストを受け取り、しかるべく処理した。(送り状は出版社名義だが「著者代行」と添え書きされているものとする。)

そして数日後、その著作を献本された人物が個人ブログで新著の感想を述べた。

編集者は、出版社のブログに「○○さんが作家Aの作品を絶賛しています」と投稿した。

……私個人の感覚では、民間企業のやることだから「公私混同」という言葉は当てはまらないにしても、「ものごとの筋目が違う」、仕事と、仕事の範囲外の善意の区別を曖昧ごっちゃに混濁しているように思うのだが、皆さんはどう思われるだろうか?

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もしも、出版社が会社の判断としてしかるべき人たちに「出版社から」献本した、というのであれば、そのような当惑は感じないと思う。あの仕事熱心な出版社(および編集者)のことだから、個人ブログに何か書いたら、きっと自社ブログにリアクションがあるんだろう、と予想することもできる。

でも、そのように「仕事熱心」であることが既に知られている出版社から「著者代行」とわざわざ添え書きされた献本があったら、受け取ったほうは真意を測りかねて戸惑うし、しばらく様子をうかがっているうちに、他の献本者のブログへの書き込みがこのような扱いを受けているとわかったら、疑いはますます深まる。

しかも、その本の著者とは会ったこともなければ、個人的にメールその他でのやりとりも一切したことがないし、私はいわゆる「書評家」を仕事にしているわけでもない。

「これはきっと、「著者代行」となっているけど、実際は出版社が何らかの名簿をもとに投げ網風の献本リストを作って、宣伝目的で本を送ってきたんだろう。こういうのも、なんとかマーケティングと名前が付いているのだろうか」

と悪く取られても仕方があるまい。

私は、たとえそうやって「話題性」を高めることが回り回って著者にもなんらかの「利益」をもたらす、という善意でなされたのだとしても、そのように、ビジネスと、ビジネスを離れた善意とを混濁させることを好みません。いつか自分が同じようなことをされるんじゃないか、と考えたら不安になりますし、媒体と書き手の間に信頼が成立しないような職場は嫌だと思うので……。

本当に著者を「代行」したに過ぎないんだったら、あとのフォローも「著者の名前」でやらなければおかしいし、最初からすべて出版社の判断なんだったら、「著者代行」などといって、社員ではない著者を曖昧に自社の営業に巻き込んで、隠れ蓑に使うべきではない。

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……とはいえ、何かの拍子でそのうちその出版社と何らかの関わりができてしまわないとはかぎらないので(生きていくためにはそんなに仕事を選んではいられない)、ひとまず、○○さんが翻訳した××の『●●●●』が現在わが家に一冊存在していますが、これは、当面所有していないし、所有していないので読むことはできない、という扱いにさせていただこうと思っております。事態を凍結させる、ということで。

ちなみに、私は過去数年で他にどこからも献本を受けたことがありませんから、わたくし宛てに本を送ったという会社様がございましたら、これは、まさしく貴社のことでございます。

読みたくなったら、改めてお金を払って本を買います。そのほうが、効果があるのかどうかよくわからないなんとかマーケティングより、よっぽど貴社の利益になるでしょうし。

せっかく良い本を作っていらっしゃるのだから、あんまりガっつかないほうがかっこいいんじゃないのかなあ、というのが私の感想です。

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「橋下さん、冒頭で小金稼ぎのコメンテーターと言われたんで、ぼく今日で番組降ろさせていただきます」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130615-00000032-dal-ent

こういうのは、瞬時に決めるのが正しい。後先を考えてはいけない瞬間というものがある。

(たかじんの名前を冠した番組だけど、本人は癌で闘病中のはずだから、彼にあやかって間に入っている人たちが妙に橋下に肩入れしているということなのでしょうか。

新聞記者も、「今後ジャーナリストの尊厳を損なう発言があった場合は、直ちに会見を中止します」と彼に通告すればいいのに。会社が記者を守る、という体制がないと無理だと思うけど、今ならそういう流れにもっていけるのではないだろうか。火のないところに事件を作るマッチポンプという名のお家芸を、今こそ大阪のメディアは存分にやるべきときだ(笑)。

一般論として、日本みたいに人間関係が濃密に絡み合っている社会では、抗議の意味を込めた実力行使としては、非合法へ踏み込むリスクが高いデモ(示威行動)より、自分が辞めちゃえば済むボイコットやサボタージュでシステムを脱臼させるほうが有効なことが多い。ガンジーの非暴力主義はアジアの大発見。組織に属している人も、有給休暇を上手に使って、ここぞという場面で当日蓋を開けると誰も出勤していない、とか、やり方があるんじゃないだろうか。文科省が鳴り物入りではじめた新制度は、全国すべての大学の担当者が書類提出の〆切前後1週間に一斉に「病欠」して、機能不全に陥った、とか、できたら愉快だと思うのですが……無理? 笛吹けど踊らず、ニッポンをシエスタのあるラテン世界に近付けよう、まずは大阪から! 昼休みが3時間くらいあったら、橋下くんに対抗して平日の昼間にたくさんツイートもできるよ。)