芸術と修辞:「論理がないならレトリックを使えばいいじゃない?」

前のエントリーの続きです。

東大や京大の「文学部」が(かつて?)そうであったように哲学の一領域として美学・芸術諸学を立てるときに、美学、感性論が哲学の一領域だということは(本当にそうなのか吟味しはじめるとややこしいにせよ)なんとなく納得していいように思える一方、芸術諸学はどうすればいいのか。アートは論理的ではないけれども高度なレトリックを駆使しているのだから尊重すべし、というように、修辞学に保証人として裏書きしてもらう戦略が有望視されているのだろうか。

芸術学において修辞学が肝である、というのは、西欧で伝統的にもしくは遅くとも近世以後は一般的にそうなのだ、と言えるのか、日本のように芸術が哲学の軒下を借りている状況が強いる制度的な事情に過ぎないのか、私にはよくわからないのですけれど、ともあれ、論理という存在証明の知ではなく、修辞という効果の戦略に賭ける、という態度があり得そうだということですね。

佐々木健一の美学は演劇の台詞のレトリック分析から出発していたし、礒山雅は、(いちおう)バッハをはじめとするドイツのカントールたちの音楽修辞学の研究から出発したことになっている。ゲームの修辞学が21世紀に提唱されるのは、そういう系譜としてわかりやすい。

でも、レトリックにフォーカスしてアートを語ると、どうしても「バロック的」になりそうな気がしないでもない。帝王学っぽい気がするんですよね。

立憲君主国の研究者は、そこに安住の地を見いだすのが穏当なのかもしれないけれど。

(文学におけるレトリック論の極北として、成功した作家が手遊び風の「文章読本」を書く、というのがこの島の昭和の風景だったようだし。)

物語のディスクール―方法論の試み (叢書記号学的実践 (2))

物語のディスクール―方法論の試み (叢書記号学的実践 (2))

この文学研究で評価の高い本がどのように論を立てているのか、便利なタームをつまみ食いするのではなく、ちゃんと読んでおいたほうがいいのだろうか。

[追記]

ちなみに、なにかと東大に対抗しがちな京大系美学には、少なくとも昭和の頃には「我々は小手先の口舌の徒ではない」というポリシーみたいのがあったような気がします。美学に関しては、東大系のほうが都会的にレトリカルで、京大系のほうが愚直に芸術の存在理由を論証しようとしていたようです。恩師谷村晃の「人文科学としての音楽学」「音楽をめぐる思考ではなく、音楽による思考」というスローガンもその系譜でしょうね。

(私が阪大の大学院に入ったころは、古株の院生に、「存在の開け」とか言う人がまだいたし。)

芸術の存在論の試みは、成功したと言えるのかどうか難しそうで、少なくとも最近は人気がなくて、谷村門下からオペラとヴィルトゥオーソという音楽のレトリックの打ち上げ花火を賞賛する岡田暁生が出て、渡辺裕が阪大でシニカルなレトリックに腐心する弟子たちを育てたので、そのあたりは、もう見えにくくなって久しいですけれど。

でも、繰り返しになりますが、芸術学において修辞学が肝である、というのは、西欧で伝統的にもしくは遅くとも近世以後は一般的にそうなのだ、と言えるのか、日本のように高等教育機関における芸術研究が哲学部門の軒下を借りている状況が強いる制度的な事情に過ぎないのか、私にはよくわからない。

文芸批評でジュネットは重宝されているようだし、「ニュー・ミュージコロジー推し」の福中冬子が20世紀のオペラをジュネットで分析しようとするのを日本音楽学会のシンポジウムで見かけたことがあるし、ゲームの分析もジュネットだと吉田寛は主張するし……、最近の人文科学では、ひと頃の構造主義記号論のようにジュネットがもてはやされているようですね。

アートとはレトリックである、というのは、ほぼ、アートを「遊び」とみなすルドロジーだから、そういうことを知識人が喧伝するのは、大衆が「アートは理屈ではなく感性だ」と受け止める俗情を、逆なでするのではなく、むしろ裏書きしてしまう。

(手品のトリックを種明かしして、それ以上のことは何もありません、と片付けるようなものだ。)

間違ったことが主張されているわけではないけれど、倫理の問題として、それは、「近代」がアートに期待したような批判・諷刺(=批評)とは違う道なのだろうと思う。

(ドン・キホーテの散文的ユーモアを近代文学の始祖と崇めた時代は終了しました、ということですね。)

ルドロジカルな修辞学でアートを擁護する、というのは、ネオリベ的な北米流(映画をメイン・フィールドとするナラトロジー、つまりは「現代の神話」をメディアミックスでグローバルに発信すれば勝ちだよね、の思想)への対抗軸ではあるかもしれないけれど、同時にそれは、何かを断念した先に出てきた「ヨーロッパの断捨離」(現代のプチ・トリアノン)という感じがします。それで上手くいくのかどうか、まだ、よくわからん。

(そういえば、昨年、六本木ヒルズの森美術館で「マリー・アントワネット展」というのをやっておりましたが……。)