文字も読めるし楽譜も読める vs 文字は読めないが楽譜は読める

無文字社会が紙と出会ったときに、文字の読み書きはしないが楽譜(音の記譜)は読み書きする、というように、文字と音が別立てで紙に記載される文化が成立した、という事例はあるのだろうか。

そういう事例が存在すれば興味深いことだと思うし、ひょっとすると、20世紀初頭のヨーロッパのインテリが黒人音楽(ジャズ)に魅了されたのは、アフリカの太鼓ことばのような「言葉ならざる音コミュニケーション」に似た、言葉とは別立ての音の文化が現在進行形でここに生きている、と思ったのかもしれないが、どうなのだろう。

少なくとも西欧の記譜法は、文字の読み書きが大文字小文字の使い分けと分かち書きを実装して、かなり高度化した段階で教会のなかで生まれているので、「(文字は読めないが)楽譜なら読める」というのはなくて、「(文字が読めるし)楽譜も読める」人々が教会のなかに、そしてのちには宮廷の周囲に現れた、という順序だろうと思う。

そう考えると、ギリシャの音楽論の中世教会への導入は、「理論(musica)」としてはボエティウスだからかなり早いことになるけれど、聖歌の実践にそうした「理論(musica)」が適用されるのは、かなりあとだと考えた方がいいのではないか、という気がする。

ムシカ・エンキリアーディスのような例はあるにしても、ひょっとすると、ネウマ譜に基準線が導入されるまでは、まだ、聖歌の実践とギリシャの理論の関係が確定していなかったのではないだろうか。

ヨーロッパの「紙/文字の読み書き」は、中世後期からルネサンスには、自分たちより進んでいたイスラム文化の導入=翻訳のメイン・フィールドだったようだが(翻訳を容易にするために分かち書きが一般化した、という説があるほどに)、聖歌の記譜もまた、すでに最初から(神の)秩序が浸透して形の定まっていたものを記録・記述したというよりも、ギリシャの理論(ユダヤの文化とは由来からして異質であるような)との関係が曖昧であった「うた」を理論に対応づけて再定義したんでしょうね。

別に目新しい話ではないと思うけれど、「紙メディアと音楽」という話の出発点はそういうことなのでしょう。

音楽の様式史として記述されてきた話を、音のメディア論的な布置の変化として語り直すことは、このあたりまで遡って、一度徹底的にやっておいたほうがいいんでしょうね。