『物語のディスクール』の人類学的ディスクール

ジュネットの Discours du récit という本が日本では『物語のディスクール』の題で訳され、英語では Narative Discourse と訳されているようだが、ジュネットの序文をとりあえず日本語訳で読んでみると、やはり récit という言葉が問題であって、これは直訳すれば「語られたもの」だけれども、同時に文学ジャンルとしての「小説」(フランスでこの本を手に取るような読者層であれば即座に1ダースくらいの既読作品が思い浮かぶであろうような)を指すわけですよね。

序文の最初の、 récit は曖昧な言葉だ、というのは、19世紀フランスが誇る散文文学ジャンルが「語られたもの」というそっけない言葉で総称されているのは奇妙ですね、ということだと思う。

で、著者は récit という言葉のそうした曖昧な通常の用法を異化して、この言葉を「語られたもの」の意味でしか使えないところに追い詰めていくわけだが、そのための仕掛けは、récit の分析のための実例として、通常 récit には分類されないであろう叙事詩オデュッセイアを持ってくることだと思う。著者は、何の断りもなく、いきなり、当たり前のことのようにホメロスを実例として参照しながら、本書の基礎概念を手際良く説明する。そうして、récit という(フランス語の文脈では)扱いがやっかいな言葉を、histoire を指し示すシニフィアンであり、naration という行為によって生成される、というような、典型的な構造主義記号論の枠組に鮮やかに収めてしまう。

「文学ジャンルとしての小説」を指し示す言葉だったはずの récit が、「出来事(histoire)」を指し示す記号としての「語られたもの」になり、そのような記号作用を発動する行為として「語り(naration)」が浮かび上がるのは、「物語 narative 」の典型ではあっても「小説 récit」とは呼べないはずの叙事詩の古典の側から近代の récit を捉え直したからだと思います。

(まだ「メタレプシス」のところは読んでいないけれど、ホメロスの側から小説を論じる「人類学的小説論」なのだとしたら、古典的なレトリックの術語が出てきても不思議ではないですね。)

récit という言葉のフランスにおける用法に依存した著者の語りの力業を外国語に訳すのは大変だろうとは思うけれど、それにしても、普通にタイトルを訳すとしたら「小説のディスクール」だろうと思うし、日本語訳にせよ英語訳にせよ、「物語/narative」という本書が文中の語りによって一歩ずつアプローチしようとしている事柄をあらかじめ書名に掲げてしまうのは、翻訳推理小説がタイトルを「意訳」して犯人の名前を翻訳タイトルで明かしてしまっているのに近いのではないかと思いました。

あと、histoire / récit / natation の訳語は、やっぱり「出来事/語られたもの/語り」くらいにするのがいいんじゃないのかなあ、と思った。

(ホメロスの側から近代小説を読み解くジュネットに刺激を受けてゲームの構造主義分析をやるとしたら、その参照点となる、遊びの文化のホメロスは、いったい誰なのでしょうか。この参照点の深度によって、ゲームの物語分析は本格的にもなれば、ちゃちにもなるんだろうなあ、構造主義と呼びうる人類学的広がりを確保するには、ビデオゲームのはるか以前からあるなんらかの遊びの典型を召喚することになるんだろうなあ、と思いました。

サブカルチャーは「雑食」なのだから研究態度も雑食に、使える道具をつぎはぎで組み合わせていいのだ、という同語反復風で論点先取風の居直りがどこかに出てきてしまうことがあるけれど、人類学的視座で析出された分析概念はきちんと人類学的視座で使う、というような骨太の議論を私は読みたい。そういうやり方で、「王」と「民衆」の立場を越えた地平を開くことこそが知・学問の力だと私は信じているので、サブカルチャー論が「王」(もしくは20世紀新体制の王であるところの「大衆」)を喜ばせる「社交のレトリック」に安住するのを見るのは不快です。)