読者論と観客論とゲーマー論

昼間の授業のあとで、受容美学といっても、ドラマの観客論は小説の読者論とは重ならないところが残るんじゃないかなあ、と考えていたのだが、「immersive なゲーム」という風に液体状の語彙で語られる現象は、なるほど、どちらとも違っているかもしれない。見ること/読むことは、表象の向こうに「作者」を構成するけれど、液体状の何かに浸るインタラクティヴもしくはコーポラティヴな環境は、そうではないかもしれない。

好き嫌いで言えば、私個人にとっては、むしろ、液状化した世界のほうがディストピアだが、それはまた別の話、なのでしょう。動物園や植物園を好む人もいれば、水族館を好む人もいる、という程度の話だろうから。

液状のメタファー

immerse は、要するに「浸る」という意味なんですね。動詞で言うと、merge(コンピュータで言うマージ)は液状の存在に飲み込まれてしまうイメージで、emerge (出現)は immerge (沈む)の反対語だから、液状の存在から抜け出ることなのだろうと思う。

なんとなく、ほ乳類が海から陸に上がる進化なるものを連想させる語群だなあ、と思ったりする。

ひょっとすると、ゲームなるものは、このように、しっとり濡れた液体状のメタファー群を身にまといがちなところが特徴的だ、と言えたりするのだろうか。(どこかしら母胎の胎児、エヴァンゲリオンのあのカプセル、とか、そういうのを連想させるわけだが……。)人間とのインターフェースは生き生きとインタラクティヴで、一連の動作は算術・アルゴリズムで制御されているけれど(別にコンピュータだけがそうだというわけではなく)、でも、中身は液状である、と。

なんとなく、液状のメタファーが妥当するゲームと、そうじゃないゲームがありそうに直観的には思うのだが、そのあたりはどうなっているのだろう。例えば囲碁将棋が immersive かというと、あまりピンと来ないようでもあるし、でも、何か上手な説明が考案されているのかもしれないし。

(囲碁や将棋で、終局=ゲームオーバーのあとで盤上の石や駒が織りなす図柄をぐしゃっと崩して、検討会が延々と繰り広げられるのは、これらのゲームもまた「液体状」の何かであることを告げているのかもしれませんね。)

軽演劇と世紀末:吉田秀和の浅草オペラ評

吉田秀和は「日本人音楽家の運命」で浅草オペラの思い出とセノオ楽譜の竹久夢二の挿絵を関連づけて、大正期の装飾的な軽さをユーントシュティルと同時代の現象と捉える可能性を示唆している。シミキンは単なる軽薄ではないんじゃないか、と。

世紀末のモデルネですね。1965年に既にそういうことを言っている。浅草オペラの舞台や衣装の色は日本の風景とは違っていたんだ、という風に、モノクロの写真ではわからないことも指摘しているのは、日本のオペラ評で色の話をする人が出てくるのは、かなりあとになってからだという点でも興味深い。

人生の選択

私は私自身の人生の選択として、吉田秀和を1965年の「日本人音楽家の運命」というテクストを起点に読み直すことに決めたわけだが、それは、三谷幸喜をファンとして見続ける、「真田丸」は全部観る、と決めるのとは、ちょっと意味が違う気がしている。

吉田秀和という人物は高名だが、「日本人音楽家の運命」というテクストは読まれていなさすぎるし、もうちょっと読まれてもいいんじゃないかと思うので、より多くの人にこのテクストが読まれるように、自分に何かできることはないものか、というようなことを考えている。

(そして「コンヴィチュニー推し」は、上の2つともさらに意味が違って、現代のオペラ演出について立派な仕事をしてくれそうな若い人がいることが判明しつつあるご時世でもあり、単に、「東条許すまじ」と思っているに過ぎない。)

いわゆる性善説と「読まない」理由

学問は性善説だと言われるが、それはつまり、あるテクストや対象に取り組むことについてはほぼ無際限に自由である一方で、あるテクストや対象に取り組まないこと、あるテクストや対象を排除したり抑圧したりすることを正当化できないシステムだからなのではないだろうか?

学問とは、何かをやらない理由を弁じることのできないメソードだと思うのです。

「オレは○○をやる、××はやらない」と宣言することは、人生の選択として、学問とは別の相において、個人の自由ではありますが。

「作者の意図」の彼岸

2016年にもなって、「作者の意図」を詮索することを研究目的に掲げている芸術学者はまともじゃなかろう(笑)。しかしながら、まともな芸術学者であれば、実作者の伝記や日記が「作者の意図」の詮索とは別の用途で実に有用であることを思い知っているはずだ。

「作者の意図」の詮索の彼岸に作品研究が営まれている世界(既に現在はそのような世界であるわけだが)とは、どういう世界なんでしょうね。

少なくともその世界においては、「私は作者の伝記や日記を読むのが嫌だから芸術とは別の対象を研究しています」というような「研究者の意図」の彼岸で、芸術研究やその他の研究が営まれているんじゃないでしょうか。

次世代かその次の世代のゲーム学者は、たぶん、有用な情報源として作者の伝記や日記を活用しながら研究を進めているだろうと思う。

自分の研究分野の優位を主張するために、他の分野のベストパフォーマンスとはとうてい言えそうもないダメな研究(の戯画)を引き合いに出すのは、19世紀に逆戻りした「不均衡な比較」です。

あなたが優秀な人間であることはほぼ衆目の認めるところではあるだろうけれど、それは、あなたの取り組む分野が他の分野よりも優秀であることを意味するものではありません。それが「作者の意図」の彼岸を生きる自由というものである。

助左!

蘇ってしまったとあっては、心穏やかではいられない。

(外出からようやく戻ったので、これから録画をみる。)

[追記]

みた! 輝く太陽!! 池辺晋一郎の音楽が聞こえてくるような! (かつてのような海に沈む落日ではなかったけれど。)

[追記2]

それにしても、昭和50年代の大河ドラマでは、東国で新皇を名乗った男や、自己責任で海外と貿易した商人や、文献で蒸気船を作ってしまった学者がヒーローだったんですよねえ。「みなさまの」公共放送がそういう番組を作るところまで色々なことを積み上げていく何かのことを、「民意」と呼ぶのではないだろうか?

吉田秀和「日本人音楽家の運命」から半世紀

たぶん全集未収録だと思うのだが、まさに彼がこのように書いた1960年代に生まれた私たちは、その後の人生を精一杯に生きた証しとして、彼が提起した様々な問題を私たちがどのように解きほぐしたか、あるいは、解きほぐそうと努めたか、きちんと書いてから死ぬべきであろう。

複数の音楽性の肯定は、1965年(奇しくも私が生まれた年だ)の吉田秀和が考えたような小澤征爾・岩城宏之らの活躍だけによって達成されたわけではないのだから。

敗戦直後の洋楽シーンにおける森正やBK放送合唱団や近衛秀麿の意義について、おそらく吉田秀和がこれほど明確に書いた文章は他にはない、というだけでも、芸術新潮に1年間連載された「日本人音楽家の運命」は、読み直される価値のあるテクストだと私は思う。

そのデータベースの作者は誰か

既存のデータベースに自分の名前をせっせと登録するだけの簡単なお仕事に人生を捧げるわけやね。

他人の名前がそのデータベースから漏れていることに気がついたら、ついでに登録してあげればいいのに。

翻訳しないまでも、そういう書物があるよ、と参照するくらいのことはできるだろう。その手間すら惜しむのは、自分だけ出世すればいい(他人は蹴落とす)、ということだから、性格の悪いことである。