オルフェオ日本初演

この話の続きです。

東京1964年の「日本代表」意識 - 仕事の日記

1965年の第8回大阪国際フェスティバルでオルフェオとドン・パスクワーレを上演したミラノ室内歌劇団というのが、どういう団体なのかよくわからなかったのだが、Opera da camera di Milano というグループは今もあるようだ。

Google Books で、 John Whenham, Claudio Monteverdi: Orfeo (Cambridge Opera Handbooks), 1986 巻末のオルフェオ上演史に次の記述が見つかる。

1964 Versailles
Cesare Brero's edition. Performed by the Opera da Camera di Milano in May and June. Brero's version was also performed, under Gianfranco Rivoli, at the Aix-en-Provence Festival in 1965 using the sets from the 1964 Versailles production.

ヴェルサイユで1964年に上演して、エクサン・プロヴァンスで再演されたプロダクションが大阪に来た、ということのようですね。ミラノの作曲家 Julio César Brero が校訂?編集?した楽譜が使われらしい。

「音楽の友」1965年6月号には、舞台写真入りで徳丸吉彦のレポートがあり、全5幕が2幕にまとめられていたことがわかる。同じ号には大木正興、菅野浩和、松本勝男、佐藤義則のフェスティバル合評があり、松本勝男が、「オルフ、マリピエロ、ヴェンツィンガーの3つの楽譜を持っているが、今回のはどれとも違う」と言っている。主催者が用意した公演プログラムには、使用エディションの情報などは出ていなかったのか。

LPレコードによる1960年代のバロック・ブームから70年代以後の古楽への過渡期で、まだ、古楽が熾烈な情報戦のフィールドだとは認識されていなかった時代なのでしょう。

オルフはオルフェオのドイツ語版を作成していて、YouTubeには、ヘルマン・プライが歌った録音なども見つかりますね。

Eine deutsche Neufassung stammt von Carl Orff; deren erste Version wurde am 17. April 1924 am Nationaltheater Mannheim, die zweite und endgültige dann am 4. Oktober 1940 in Dresden unter der musikalischen Leitung von Karl Böhm uraufgeführt.

L’Orfeo – Wikipedia

マリピエロのことは上記 John Whenham にも出てきて、イタリアの古楽復興運動のなかでモンテヴェルディに力を入れた作曲家だったんですね。1909年のOrfeo初版のファクシミリをもとに、1930年に校訂版を刊行。

そしてバーゼル・スコラ・カントルムの August Wenzinger は1955年にアルヒーフでオルフェオの録音をリリース。

アーノンクールがチューリッヒでオルフェオを上演するのは1970年。60年代のモンテヴェルディは、有史以前な感じにくすぶっている。

ちなみに、上記、徳丸先生が「音楽の友」に寄稿したレポートは異様な感じの「です・ます」体で綴られている。岡田暁生は、「日本のクラシック業界があまりにレヴェルが低いのに嫌気がさして、それで徳丸先生は日本音楽に宗旨替えしたんだ」とまことしやかに噂していましたが、当時29歳の若手音楽学者による「です・ます」体は、不毛な混乱に巻き込まれたくないという思いの表れと見えないこともない。

排気塔とコントロールパネル

東京オリンピック(いちおう芸術展示もあったことになっている)に直接的には反応しなかった芸術新潮だが、1968年から大阪万博関連の記事が出始める。グラビアで太陽の塔の岡本太郎や会場の設計や美術展示を特集するなど、

大阪万博は建築・デザインのイベントである

という位置づけになっているようだ。メタボリズムが登場して、モダニズムからエコロジーへ、というスローガンが打ち出されていたわけだから(「進歩と調和」をその線でデザインしようとしたわけですね)、このイベントを建築・デザインの側からみるのはおおむね今からみても適切な感じがする。

1969年には大阪のモダニズム建築の系譜の特集が組まれて、村野藤吾の梅田排気塔が冒頭を飾っているのは、「おぬし、できるな」という感じがする。

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大阪国際フェスティバルは1957年に第10回記念でバイロイトを再現したわけだが、肝心のヴィーラント・ワーグナーは亡くなっており、時宜を失した感がある。前年にヴィーラント・ワーグナー追悼記事を書いたのは吉田秀和だが、大阪国際フェスのレポートは斎藤十一が面倒をみたことで知られる五味康佑で、吉田秀和は翌年ドイツに行く(「ドイツ通信」1968年1〜12月号)。相変わらず、人がワラワラと集まってくると、プイと横を向いてしまう人である。

音楽雑誌ではちゃんとしたレポートがなされなかった「ノーヴェンバー・ステップス」のニューヨーク・フィルでの初演を芸術新潮は現地取材しているし、小澤征爾によるベルリオーズのレクイエム日本初演(小澤の若い頃の十八番はベルリオーズだったんですよね)のかっこいい写真が載ったり、小澤がトロントからサンフランシスコに移籍したことを報じていたりして、そこらの音楽雑誌より、よっぽどさばけた「国際感覚」が機能していたようだ。

(今の日本のクラシックを特徴付ける国際感覚、「私は日本人である前に音楽の国の住人です」路線の萌芽ですね。)

で、この頃の誌面で、へえ、と思ったのはビル制御の「コントロールパネル」のデザインに着目した記事。

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万博ともども「情報社会」(第三の波)が見えてきつつある感じがします。

ゾロアスターたち

前のエントリーは、熱力学からエネルギーという熱い比喩を取り出す人たちと、エントロピーという冷たいクールな比喩を取り出す人たちがいて、実は同じ土俵に乗っているのではないか、ということだと気がついた。=20世紀の人文の構造

エネルギーとエントロピー:熱力学的な2種のメタファー

animation の liveliness という着想は、よくよく考えてみると、そもそもが

 animation = anima (生命)を吹き込むこと

なのだから、

 生命(anima)を吹き込まれたもの(animation)は生きている(lively)

ということになって、ラテン語系の言葉をアングロサクソン系の言葉に言い換えた同語反復になりかねないので、案外やっかいだなあ、と思ったりする。

「レイヤーの重ね合わせ」とか「アイコンが同時にオブジェクトである」とか、というところに着目するデジタル・テクノロジー論は、その技術を運用している共同体で流通している語彙から詩学的であったり美学的であったりする理論を立ち上げる試みだという点では、インフォーマントの使用する語彙・観念から理論を組み立てる民族科学・エスノサイエンスなのだと思う。現代の最新の技術に取り組む集団を人類学者のような視点でフィールドワークしているわけだ。

同じ地上の人類の営みであるにもかかわらず、少なくとも私個人にとっては「未知の世界」ではあるので、そういうアプローチがあり得ることなのだろうと思う。

たぶん、「これを知らない者は未来に乗り遅れるぞ」的なジャスティスと動員の話法ではなく、そこにコミットするわけではない部外者にとって、その報告がどのような意味をもつか、という観察者のスタンスを見いだしうるかが鍵なのでしょうね。

で、そのようなエスノサイエンス的な動画論と、エイゼンシュテインの映画論を動画論に適用することの是非は、それこそ、別のレイヤーの話なのだろうと思うのだけれど、エイゼンシュテインが提唱したとされる運動の分類、(1) 物体の移動、と、(2) 光の振動、という区別は、おそらく、ニュートン的・解析的な古典力学と19世紀以後のエネルギー説やエントロピー概念が召喚されざるを得ない熱力学の区別に対応していますよね。19世紀に数学的・物理学的な基礎が準備された熱力学はブラウン運動をアインシュタインが上手に読み解いて20世紀に本格的な発展を遂げて情報理論にもつながっていくわけだから、デジタル・テクノロジーが後者と結びつくのは、いかにも、という感じがします。

たぶん、エイゼンシュテインやその他の20世紀前半の映像作家たちが光や波の運動にアーティスティックな関心を寄せたのは、同時代の科学の最先端の「発見」を「カメラで捉える/スクリーンに投影する」ことに熱中した、ということではないかと思いました。(欧米語の「発見 = discover/Erfindung」は視覚的な語彙ですし。)

熱力学的なメタファーとしては、もうひとつ、エネルギーという魅力的な概念があって、19世紀後半から20世紀前半のヨーロッパを席巻したドイツ帝国の音楽美学にはエネルゲティカーと呼ばれる一群の人たちがいるし、美術史学のヴェルフリンの意志 Willen とか、ヴォーリンガーの衝動 Drang の語の使い方には、エネルギー風の何かを表現の背後に探り当てようとする感じがある。

熱力学をそういう風に禍々しい不可視の領域として表象する(もしくは表象の限界・臨界と位置づける)一派があって、同時代にはむしろこっちが人口に膾炙したけれど(ワグネリズムからフルトヴェングラーまで「音楽の国ドイツ」はエネルギーが大好きだ)、しかし実は、英仏には別の系譜があった。それが、ジョナサン・クレーリーの言う「観察者」であり、20世紀前半の映像作家たちだった、ということかもしれないなあと思いました。

(蓮實重彦が武器にしていたテマティズムはテクストの外部との結びつきを想定しがたい記号の情報論的な偏差を検出するアクロバティックなパフォーマンスという感じがするし、リュミエールを瞳が表層的に受け止める、という言い方をすると、エイゼンシュテイン流の「運動その2」と似た何かを言おうとしている感じになる。)

ただし、エネルギーとエントロピー、意志・衝動と観察・遊戯、という対比の枠組を持ち出すと、アートとは何なのか、弁論・レトリックに重きを置くのか、模倣・ミメーシスに重きを置くのか、というように、近代初期に必ずしも同質ではない様々な技術が「美しい諸技芸」に制度的にまとめられた頃の議論が形を変えて再燃した感じになるかもしれないなあ、とは思います。

静止画を積み重ねる動画はミメーシスを語りやすいジャンルだけれど、舞台上のドラマ(演劇)では、ブレヒトのように強烈なレトリックを打ち出す人たちがいて、距離の美学とショックの美学が20世紀には拮抗していた気がします。

(「異化」という概念も、シクロフスキーの文学理論では既知の事象の表層を未知の何かとして再スキャンする「距離」の技法のような感じがする一方、ブレヒトの異化効果は、京劇の梅蘭芳とか、そういうショッキングな異物と言われてしまいそうな存在を擁護するために採用されたとりあえずの口実・レトリック(のひとつ)だったのではないか、という気がします。)

アングロサクソンの覇権(英語の世紀としての21世紀)が、距離・へだたりの美学の勝利を意味するのか、今はまだ、判断を保留したほうがいいのかもしれない。テジタル・テクノロジーの主流はアングロサクソン系なので、この領域では距離・へだたりの美学が支配的である、という暫定的な観測は、ありかもしれないなあ、とは思いますが。

小林秀雄、バイロイトへ行く

小林秀雄「モオツァルト」の初出は1946年の創元で、新潮文庫では『モオツァルト・無常ということ』として戦中のエッセイとまとめて収録されているけれど、角川文庫の『モオツァルト』(なぜか私が最初に読んだのはこっちだった)には、音楽関係のエッセイということで「バイロイトにて」が一緒に入っている。

だから、(冷静に考えればバイロイト詣でをするのは戦後随分たってからだろうとわかりそうなものだが)道頓堀で悲しみが疾走したその足で、どういう魔法を使ったのか、次の瞬間にはワーグナーの聖地のホテルで買い求めたオペラ台本を読んでいるイメージがあったのだけれど、「バイロイトにて」は1964年の芸術新潮が初出で、ビジュアル化されたB5判の紙面には、劇場をバックに立つ著者の姿や舞台写真が大きく掲載されている。カメラマンや記者(このクラスだったら編集長か?)が同行する大名旅行であったらしき雰囲気なのでした。

小林秀雄はA5判[追記: 四六判]の頃から芸術新潮で美術関係の連載を続けているけれど、戦後のエッセイ類は、それぞれどういう誌面にどういう扱いで掲載されていたのだろう。

全集を通読する「作家論」とは違うスタンスで近代文学を捉え直す、というのであれば、夏目漱石を新聞小説として読むように、小林秀雄を様々な雑誌のエッセイストとして読んでもいいわけですよね。たぶん。

animation の liveliness

という概念を知った。

animation という作用は、現状では視覚的な記号もしくは表象に対して適用されることになっているけれど、そこで議論されている事柄は2Dや3Dの動画だけでなく映像一般を射程に収めているようだし、ひょっとすると、オーディオ・ドラマやテープ音楽における聴覚的な記号・表象の animation ということを語りうるのではないか、という気がしないでもない。

デジタルの際

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個体の意志

個体の意志を尊重したうえでの退位があり得るということは、個体の意志を尊重した継承権の返上もあり得て、その地位が継承者を失って宙に浮く事態を想定しうる、ということですよね?

地位を引き受けた者が採用しうる選択肢のひとつで、さほど珍しくはないし、例外的ではない気がする。その個体が近代的な意味での人間であるならば。

単数以上、複数未満

表象文化論は東京文化論のようなところがあって、日本代表の自負みたいな事態を吟味する道具を70年代以降あれこれ揃えて、ときには(あるいはしばしば)「複数性の擁護」という言葉が関係者から漏れたように思うのだが、あれはどうなったのだろう。

半世紀経って、前と同じ都市でもう一度オリンピック、というのは、色々あって、それでも現状は単数以上、複数未満で、四捨五入したら日本代表は単数である、という見積もりなのかしら。

テレビ台本作法

日本のテレビはいまだにローバート・S・グリーン『テレビ台本作法』(ダヴィッド社)のやり方で番組を作っている、と柴田南雄が自伝で嘆いていたけれど、今は放送作家さんの定番の教科書やアンチョコのようなものが何かあるのだろうか?

東京1964年の「日本代表」意識

関西の動静だけを見ていると、1964年が大きな画期という感じはしないのだけれど、芸術新潮を順にみていくと、1964年にまたもや空気が変わる。巻頭グラビアが泰西名画からはじまるので、一見すると雑誌が保守化したのかと思うけれど、本文では盤石の安定感で内外のモダン・アートが取り上げられるのでそういうわけでもないようだ。

たぶん、アートを、古典から最先端まで丸ごとのジャンルとして、一種の「高級ブランド」として扱う態度だと思う。

実際に高度成長で成功した人たちが応接間に絵画を飾り、高級オーディオ器機を備えるようになって、芸術新潮はそういう人たちが読む雑誌、ということなんだと思う。「みなぎる自信」が誌面から感じられる。

のちに60年代は「夢の時代」と総括されてしまったけれど、前衛の荒波を保守派が押し返した末の誌面ですから、マスメディアの風俗としての60年代を特徴づける浮ついた感じは、あまりない。ニセモノを売りつけられないように鑑識眼を磨くための情報誌という感じがします。

そして妙な記述がある。

1966年日生劇場主催公演で二期会が「ポッペアの戴冠」を日本初演して、記事のキャプションは「モンテヴェルディの日本初上演」となっている。前年の第8回大阪国際フェスティバルでミラノ室内歌劇団が「オルフェオ」を上演しているのだが(1965年4月19、20、22、23日、合唱:関西歌劇団、大阪フィルハーモニー交響楽団)、東京での日本人による上演はこれが最初であると記事本文に書かれている。

なるほどこういう物言いは、大阪の関係者を怒らせますね。

大阪での上演を日本初演にカウントしない事態は、同じ頃、ストラヴィンスキーのエディプス王でも起きた。

大阪を含む「地方都市」での活動は、いわば「国内予選」であって、「日本代表」(=東京)の公式記録にカウントされない、という発想じゃないかと思う。しかも主要キャストが外国人では、まったく日本を代表していない、上げ底ではないか、と。

地方を見下しているというよりも、東京は、戦後「日本代表」の高い意識で都市を整備して、その成果が東京オリンピックであるという自負から来る勇み足だろう。

関西の地盤沈下への危機感とか万博誘致とかという動きには、この辺りの軋轢が関与していたのかもしれない。このままではジリ貧だ、大きな花火を打ち上げよう、ということですね。

後年、東京の言論人自身が、そのような60年代の過剰な向上心を「夢の時代」と総括したわけではあるけれど、自分たちが勝手に気位を高く持って、勝手に反省されても困るのであって、東京から見た東京オリンピックと、同時期の国内の他の地域や外国から見た東京オリンピックの差異、みたいなものは、一度、検証したほうがいいんじゃないだろうか。

80年代に、東京は日本から離脱した世界都市だ、という言い方があったけれど、実はそれは60年代を反復していたのかもしれないですし、このあたりは、どうも、都市と農村、という一般図式や、中央集権という制度だけの話ではないような気がします。

もう一回東京でオリンピックをやろうと言っているわけだしね。

続報あり → オルフェオ日本初演 - 仕事の日記