定刻

自宅から捕捉できる範囲にスポットとソースがあれば、毎時定刻に巡回する地道なつきあい方が可能であることを昨日ようやく知る。(我が家は現状で1時間に3匹のペースになるようだ。種類はそれなりに豊富で、今まで知らずにその恩恵を被っていたらしい。)

ポスト・ネタバレ

宙づり状態(サスペンスとはそういう意味ですよね)で人を惹きつける手練手管があるのはわかるけれど、宙づり状態を作り出す仕掛けや結末がわかってしまったあと(つまりネタバレ以後)に、なおかつ、その現象とつきあい続けるとしたら、それは何によってなのか。

すべては惰性である、というシニシズムは極論だろうと思うし、それは美である、というとアートっぽくなって、萌えである、というとオタクっぽくなるわけだが、いずれにしても、ポスト・ネタバレの地点までたどり着かないと、その現象の感性的な議論にはならないんでしょうね。

オーケストラのJALパック

「顎足付」の話の続きです。

ここ数年(主に東京の)オーケストラの海外遠征が増えているのは、私の知る限りでは、各オーケストラに出入りしているマネジメント事務所主導の企画ですよね。海外から人を呼んだり、海外に日本の人を送り出したり、音楽マネジメントの業態が旅行代理店に似てきているように見えます。

個人の海外パックツアー(それが「JALパック」と商品名で呼ばれた昭和は既に遠い過去になってしまったが)は、それ自体良いも悪いもなく、目的が観光であれ何であれ、望む人はやればいい。オーケストラだって同じことだ。お金を貯めて、あるいは集めて、団体海外旅行を何かの記念でやる、というのであれば、それはその団体の自由だ。

(例えば京響は、設立以来、10年ごとに海外ツアーを組む、というのが恒例になっていて、粛々と「決まり事」が執り行われる様子は、伝統がこういう風に創られるのだなあ、と、古都の知恵を垣間見る気がします。)

マネジメント事務所がお膳立てしたパック・ツアーは飽き足らない、とか、そのような「日本人旅行者」の姿は、現地に住んでいる者から見ると滑稽である、とか、思うのであれば、そしてそのようなビジネスのお先棒を担ぐのは嫌だと思うのであれば、あなたが別のビジネスモデルを立てたらいい。(あるいは、マネジメント事務所に別の商品プランを提案する、とか。)

公然と行われている商行為に対して、あたかもそのような実態がないかのようにほおかむりをしておいて、ツアー客の「モラル」や「心構え」を上から目線で叱責するような態度は、その商行為の尻馬に乗っている、と言われても仕方あるまい。

アナグラム

あっちこっちで「短い平成」(短かった20世紀から、まだ長いか短いか不明な21世紀への過渡期)が終わろうとしているようだが、これを「敗戦後的なもの」(もはや国家間の総力戦が不可能になった時代のはじまり)のリセットだと思うと、間違いそうな気がする。話のスパンが違いすぎる。

タイトルに「シン・*ジ*」のアナグラムが埋め込まれていると読めないこともない、いかにも「短い平成」を終わらせようとするかのような映画が話題であるらしいけれど。

象徴の濫用

あの五人組を「a symbol of the unity of the people」である、と主張するのは勝手だし、ファン心理というのはそういう風にヒートアップするものなのですねえ、ということだが、彼らは「the symbol of the State」ではない。

君は「顎足付」という言葉を知っているか?

この人、いつかきっとやらかすだろうなあ、と思っていたよ。

日本のオーケストラが海外公演に行くとき、現地の聴衆に聴いてほしいと思ったら、事前にその国のジャーナリストを日本に招いて記事を書いてもらうぐらいしないと相手にしてくれない。そんなお金ないっていうけれど、最初からツアーの予算にそのくらい組み込むべきではないのか。

これを日本における「東京」と「地方」に当てはめるとこうなる。

地方のオーケストラが東京で公演するとき、東京の聴衆に聴いてほしいと思ったら、事前に東京のジャーナリストを地方に招いて記事を書いてもらうぐらいしないと相手にしてくれない。そんなお金ないっていうけれど、最初からツアーの予算にそのくらい組み込むべきではないのか。

こういうのを「顎足付」と言います。古くからの慣行で、そのような「中央と地方」の権力構造は、興行がアウトローな世界につけこまれる恰好のポイントでもありました。

(「旨い話」が「危ない橋」を渡るのと引き替えであるケースがゴロゴロ転がっているのは、決して、国内だけではありません。過去のエピソードがいくつも語り伝えられていますし、今も、当人がしっかりしていないと、色々な人が寄ってくるのは変わらないはずです。)

この人は、こういう構造を脱却するために、興行界がこれまでに実に多くの取り組みを積み重ねて、そして今日があることをご存じないようですね。世間知らずの、躾ができていないお嬢さんだ。

「国際派」ジャーナリストがある年齢に達したときに相手を自陣に引き込むための手練手管に熱中しはじめるのは、相手の懐に飛び込もうと色々やって、結局うまくいかずに己の限界が見えたときに、それを自分の問題ではなく、「私たち」の問題であるかのように責任転嫁する心理だと思う。

若い頃に血気盛んだった人が陥りがちな罠です。

今後、このジャーナリストが地方のどこかの公演の記事を書いていたら、「この人、きっと食事代や宿泊代を主催者に要求して平気なんだろうなあ」と思うことにしよう。

この人はまともじゃない、というだけでなく、こういう人を呼ぶ主催者もまた、まともじゃない。業界を健全化するための、いい目印になりそうだ。

あごあし‐つき【顎足付(き)】

食事代と交通費を先方が負担すること。「―の接待旅行」

あごあしつき【顎足付(き)】の意味 - goo国語辞書

(武士の情けでリンクは張らないが、大学における humanities が凋落しているのだとしたら、それは、世間でこういう人が放置されているのと無関係ではないと思う。)

「風景の発見」説と人称論の効力

この時憲法九条は、柄谷が言文一致によって成立させたと指摘する「風景」「内面」「告白」の制度と対応させて考えることができる。柄谷は、近代文学が三人称客観文体を言文一致において確立したことを、「語り手の消去」として批判的に分析している。「語り手の消去」とは主体性の消去であり、物語を「風景」の「描写」に解体するものと言えるが、日本国憲法にも同様の「語り手の消去」が起きている。

柄谷行人『日本近代文学の起源』に「語り手の消去」や小説の人称の話題が出ていた記憶はなかったので読み返したが、言文一致が「内面」を生み出した、と論じる際、彼が着目するのは「文字」(の象形・視覚性)や「韻律」、エクリチュールの不透明性と音声中心主義の透明性、という議論であり、「三人称客観文体」が「語り手の消去」である、というような議論(たぶんこの議論は粗雑過ぎる)は出て来ない。

(1) 語りにおける話者や人称は、語りの「視点」(と「焦点」←この概念は論争の火種のようだが)の問題としてホットな話題であり続けてはいるけれど、1970年代の柄谷行人(とその周囲)にこの論点はない。

(2) 新旧憲法の文体を「文学」の問題として語るのはいいとして、法律が一人称で綴られない、というのは、新旧憲法だけのことではないのだから、勇み足に思える。

(3) 天皇が臣民の前で自らを「朕」と呼称しなくなり、だとすれば彼は自らを何と呼称するのか、という天皇の人称の問題は、現行憲法下で、ひとつの注目点ではあるかもしれないけれど、この話題は『日本近代文学の起源』が提示した論点の範囲を超えている。柄谷行人はバイブル The Book じゃないので、そこに何もかもが書いてある、という風に考えるわけにはいかない。

それはともかく、ネット民が画面に映るアイテムを次々解析したのは、天皇のメッセージをワイドショウの有名人の記者会見のように眺めて、小保方さんのファッションやアクセサリーを語るようにあの会見を消費した、ということなんでしょうね。彼らには、「内面」の「告白」という制度を迎え撃つ「ポストモダン」の陳腐化した常套手段しか持ち駒がなかったわけだ。

現天皇は近代人だと思うけれど、2016年8月8日のメッセージで「内面」を「告白」したわけではない。

His Majesty の English

彼の日本語を「声」として聞いたときに、この箇所は、すぐには意味が取れなかった。

天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求めると共に,天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。

直観的に、各方面とのすり合わせで付け加えられた文言があり、それで言葉の流れが他の箇所と違ってしまったのではないかと思ったのだが、英語版はこのようになっている。

In order to carry out the duties of the Emperor as the symbol of the State and as a symbol of the unity of the people, the Emperor needs to seek from the people their understanding on the role of the symbol of the State. I think that likewise, there is need for the Emperor to have a deep awareness of his own role as the Emperor, deep understanding of the people, and willingness to nurture within himself the awareness of being with the people.

(1) 「天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,」

引用冒頭で、「象徴であると共に」と「国民統合の象徴」というように象徴の語が2度繰り返される。何の限定もなく発話された「象徴」が、そのあとの「国民統合の象徴」とどう違うのか、日本語版では説明が抜けている。

英語版では、

the duties of the Emperor as the symbol of the State and as a symbol of the unity of the people

「as A and as B」の構文なので、意味は明確だ。最初の「象徴」は「国家のシンボル」、2つ目の象徴は「国民統合のシンボル」で、なおかつ、国家のシンボルは今ここにこうして存在しているただひとつでそれ以外はない("the" symbol of the State)というあり方だが(=法治国家なので法はシンボルを一意に定める)、国民統合の象徴は、他にもあり得るかもしれないけれども、当面はひとつ("a" symbol of the unity of the people)だ。

彼は英語版のメッセージにおいて、「天皇が国家の象徴としての役割と共に、国民統合の象徴の役割を果たすためには、」と言っている。

(2) The Emperor needs to seek... I think that likewise, there is need for the Emperor

引用の後半の錯綜した言い回しが、英語版では、2つの文に分かれている。英語版と対応する箇所で日本語版を2つの文に分けるとしたら、たぶん、こうなる。

「天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求める必要があります。天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。」

そして、「天皇という象徴の立場」という言い回しは、英語版の「the role of the symbol of the State」に対応するが、だとしたら、ここで再び「国家(the Stete)」の語が日本語版では消えていることになる。英語版にある単語を復活させるとしたら、

「天皇が国民に,国家の象徴という立場への理解を求める必要があります。天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。」

以上をまとめて、いわば、英語版の日本語訳を作成するとしたら、

天皇が国家の象徴としての役割と共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,天皇が国民に,国家の象徴という立場への理解を求める必要があります。天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。

(3) my role and my duties

しかし、こうして全体を通して読むと、「duty → 役割」、「role → 立場」という単語の対応が、なにかしっくり来ない。

引用に先立つメッセージ冒頭の「この先の自分の在り方や務めにつき,思いを致す」が、英語版では「contemplate on my role and my duties as the Emperor in the days to come」であり、2つめの段落の「重い務め」という印象的な言い回しも、これを受けて英語版では「heavy duties」になっている。これを踏まえると、「duty → 務め」、「roll → 在り方」という対応付けを維持するのが、文章としては整合的であるように思われる。

天皇が国家の象徴としての務めと共に,国民統合の象徴としての務めを果たすためには,天皇が国民に,国家の象徴という在り方への理解を求める必要があります。天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。

The Emperor は、国際語としての英語で「the symbol of the State」について個人としての所感を発表したが、「国民」に向けて「国家」の語を発話しなかった。彼は、「国民に the symbol of the State への理解を求める」という課題を、「国家」の語を発話することなしに果たさねばならない立場に置かれている。

それは、国家の行政官が「軍隊」の語を発話することなしに army を語らねばならないのと、何かが似ている。なるほど彼は、「自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め」ているかもしれない。

ちなみに、英語版のメッセージの呼称「Message from His Majesty The Emperor」は、代名詞「His」と定冠詞「The」のイニシャルが大文字で、通常わたしたちが目にする英語の表記とは異なる君主の語法になっている。message from については「Message from .... / View the videos of a message from ...」と通常通りに文頭のみ大文字なので、「His Majesty The Emperor」という用字は意図的だろう。彼が symbolize する国家を指す単語 state も、symbol of the State という言い回しにおいては、常にイニシャル S が大文字の the State である。

一方、日本語版の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」という呼称に含まれる「象徴としてのお務めについて」は、英語版の呼称では訳出されていない。これは、単に「2016年8月8日のメッセージ」である。

Message from His Majesty The Emperor : Message from His Majesty The Emperor(August 8, 2016) (video) - The Imperial Household Agency

「英語の世紀」とは、世襲君主の語法を現役で稼働させている言語が、新大陸に渡ったその臣民の目覚ましい働きで地上を覆うに至った時代であり、21世紀の Far East の The Emperor は、この言語環境を十全に活用して、自らのメッセージを発信している。

メディア論の急速な経年劣化

昭和天皇の玉音放送は、50年以上過ぎてようやくラジオ放送として分析が施されるようになった。そして同じ人物の死をめぐる報道と社会現象については、商売気のある社会科学者が「フィールドワーク」と称して嬉しげに様々なデータをリアルタイムに集めて、その後10年くらい、様々な分析を「業績」として公表した。

その跡継ぎになった人物の「個人としての見解」のテレビ放送の「解析」が、コンピュータネットワークを介したコミュニケーションを無上の楽しみとする人々の恰好のネタになるのは、天皇制にメディア論のアングルからアプローチしても、もう何も出て来ない、ということで、メディア論(テクスト論を含む)の終焉を予感させる兆候的・象徴的な出来事はあっても、天皇制(そこでは「象徴的」という比喩ではない「シンボル」の運用が問題になっている)の存亡とは、ほとんど何も関係ない。