音楽の散文

そういえばこの概念を駆使する音楽論は、まだ日本語では書かれていないかもしれませんね。戦後西ドイツの音楽研究のこの島における受容の積み残しかも。

散文は、まだ生まれたばかりである。

舞台様式の独白

シューベルトもチャイコフスキーも、秘密を告白するリリカルな音楽が、劇音楽の手法を借りてなされるのはどういうことなのだろう。西洋音楽において、何故に一人称は舞台のモノローグの様式になるのか。

たぶんそうではないポストロマン主義をさぐり当てるために提唱されたのが、韻文から散文へ、のスローガンだと思うのだが、音楽の散文もまた、まずは舞台の新様式として始まっているので、西洋における劇場メディアの根は深そうだ。

「白鳥の変容」は、劇場のデクラメーションから遠いけれど、劇場と無縁に見出されたと言えるのかどうか、どうなのだろう。少なくともワーグナーの音響の魔術が、こういうのを事後的に劇場に登録することで成り立つのだろうということまでは、すぐにわかるが。

「私だけが知っている」

「世界の秘密を私だけが知っている」のヴァリアントとして、「音楽のかけがえのない核心を私だけがわかっている」みたいな心性に陥るケースが音楽にはあるようで、そういうリスナーの心性を狙い撃ちする手法は20世紀のポピュラーソングまで続いているのかもしれず、そうした歌の起源がひょっとするとシューベルトだ、と言えるかもしれないけれど、

周りの高揚感や焚きつけ役のショーバーはともかく、シューベルト自身がどういうキャラクターだったのか、というと、案外そういうタイプではなかったかもしれないと思わせるところが、堀朋平の本は面白い。たぶん、著者自身が、そういう手法に心を動かされつつ、それだけでシューベルトを語るのとは違うモードで書いているからじゃないかと思う。

むしろ、ただでさえ膨大なシューベルトの歌曲の周囲には、過去200年で、シューベルト論とシューベルト研究の歴史みたいな蓄積が膨大にあって、そのアーカイヴの山は、「私だけが知っている」とは正反対の状態ですもんね。

「私だけが知っている」という心性は、誰もが何かを言いたくなるような歌の周囲にこそ発生してしまう。ところが、シューベルトの歌曲は、誰もが何かを簡単に言えそうな代物ではないかもしれなくて、だからややこしいわけですね。

リリシズムの原理みたいなお話。

予言の結末

そういえば去年の5月、前回シューベルトの歌曲にまつわるお仕事をさせていただいたときに、私はこういう風に書いたのでした。

シューベルトの Freundkreis の特性について、私は Walther Dürr が Reclam の概説書に書いている文章がコンパクトでよくまとまっていると思っているのですが、その後、より本格的な研究が出たりしているのでしょうか? 「つながり」な「社会学」を上手に消化して使いこなす若い方々であれば、このあたり、日本語で面白く書けそうなネタがたくさんありそうに思うのですが……。Franz von Schober だけでも、ちゃんと調べたら、もっと色々な武勇伝が出てきそうだし。

「白鳥の歌」と「詩人の恋」 - 仕事の日記

これを書いた時点では、堀朋平さんについては美学に出たペンタトニックに着目する論文などのことしか知らなくて、だからコンサートのプレトークでも Reclam の Handbuch をゲオルギアーデスと吉田秀和に並べて紹介することしかできなかったのですが、1年半経って、本当に Walther Dürr を強力にフィーチャーして、シューベルトの友人サークルにおける「つながり」の重要性を最大限に輝かせる日本語の本が出現したことになりますね。

3年前の小岩さんのピアノ協奏曲の本でウェーバーの音楽がしかるべき文脈に収まって、この本でシューベルトの友人サークルが当世風に輝いたので、わたくしが学生時代に西洋音楽史の周囲をうろうろしながら「ここがちょっと面白いかも」と思っていたことは、わたくしよりもふさわしい人の手で無事に世に出たことになるようです。

わたくしは、心置きなく戦後関西洋楽史と大栗裕でいきたいと思います。

物事は落ち着くところに落ち着くものですね。

(ウェーバーのオペラのほうも、コンヴィチュニーが演出してメッツマッハーが指揮したハンブルクの魔弾の射手と、カリアリ劇場のオイリュアンテと、2つもいいDVDがあるから、どういうものなのか、おおむねわかっていただけそうですし。)

P. S.

世間では、自分がやりたいと思っていたことを他人が自分より上手にやると、人間はそれを嫉妬するものだ、ということになっているらしいけれど、あれは何なんですかね。誰の功績であろうと、いいものが世に出たんだから何が不満なのか、私にはよくわからない。「それはちょっと違うだろう」というところがあれば文句を言うけれど、そのような異議申し立ては、別に、オレのほうがあいつより上手くやれる、という自己アピールじゃないと思うんですけどね。

業績主義のゲームでは、「誰がそれを行ったか」ということのほうが、「何が行われたか」ということよりも重要で(=結果よりも過程を重視するアマチュアリズムめいたエートスの変種)、なおかつ、「自分がより多く、より高度な業績をあげること」が最優先であり、そのためには、他人の足を引っ張ったり、他人の業績を貶めてもいい(=ほぼデフレマインド)、みたいなことに今もなっているのでしょうか? さすがに、もう、そういう時代じゃないですよね。

(あと、さあ。弟子や後輩が何かをやろうとしているのを素知らぬふりでほったらかして、「私は自由放任です」みたいに言っておきながら、その弟子や後輩が本を出して、それがちょっと評判になると、おもむろに「実は彼はかつて私の授業を受けておりまして、その頃から、いつかビッグになるだろうと思っていました」みたいなことを言うのって、最悪だし、かなり古くさい昭和のコネ社会の再来だと思う。

グローバルとか、みんなもっと外に視野を広げよう、とかいいながら、人間関係のネットワークを狭い範囲に囲い込もうとしているのは、誰よりもあなた自身じゃないか、ということになると思うんだよね。誰のこととは言わないが。

かつての教え子だからっていうんで、早速、自分が館長をやっているホールに引っ張ってくる礒山先生のほうが、ちょっと露骨すぎないか、とは思うけれど、むしろ人材を広い場所に押し出す仕事をしていると思う。ネットでお友達ごっこの雑談をしてるだけじゃ、物事は動かないよ。

キミは音楽の世界を妙にかき回したいようだが、音楽に何か恨みでもあるのか(笑)。)

歌う身体、ピアノを弾く身体

阪大の学生時代は、私自身もそうだし、恩師谷村晃も岡田暁生も、分析の手ほどきを受けたショパン研究のシルヴァン・ギニャールさんも、周りがピアノを弾く身体だらけだったかもしれない。

今は、関西二期会のプリマが学院長である女子大やオペラハウスのある大学のお世話になっておりますが。

うたの秋

堀朋平さんの本を必要があって再読。信時潔から中田喜直(明日、演奏会があります)、そしてシューベルトと進む「歌曲の年」になりつつある。

買ってすぐに大急ぎで読んだときにはわからなかった(読めなかった)のだけれど、シューベルトの音楽語法 → 詩(人)と音楽(家)の関係 → 批評(歌曲の聴かれ方) → シューベルティアーデ(歌曲を支えるコミュニティ)……というように、章が進むに従って変数が増える形式で書かれているのですね。そしてここで論究される「シューベルト」は、後期の芳醇ではあるけれども閉塞しているかもしれない無限のヴァリアント生成(「天国的な長さ」)ではなく、それに先行する中期の「変容の瞬間」に照準が合わされている。いってみれば、近代とは「再帰性」である、とする「失われた20年」の人文の議論に対して、それに先行する近代の立ち上げ、若々しい「切断」を輝かせる話になっているようだ。

学位論文の段階では、おそらく先行研究を踏まえた方法・視点の定位という手続きがこの前にあったのでしょうけれど、なるほど、こういう構成は、決定的な「瞬間」「行動」を捉えて、それが波及していく様を見極める、というスタンスにふさわしいのかもしれない。器楽的・解釈的な Vortrag (20世紀のピアニストが楽譜を全部暗譜して、全体の構成を見据えて周到な準備で演奏を組み立てるような)ではなく、歌手が声を発して、その帰結を引き受けるのに似た思考の歩み、「歌手の思考」かもしれないなあと思いました。

(だれかが「つづれ織り」と形容したらしい、連想が連想を呼びさますような話の展開も、楽音の自律=「音楽とは音の関係である、以上」という潔さとは違うやりかたで、言葉と音楽が相互に介入し合う場を捉えるときには、このようになっていくものかもしれない、と思います。)

ミニマムに切り出された命題を最初に出して、その帰結をひとつずつ変数を増やしながら見極める、という構成をすぐには読み取れなかったのは、最初に「全体」を提示して次第に細部へと分け入るテクスト読解=謎解き話法が一般的な「人文」の作法に私が慣れすぎていたからだろうと反省しました。でも、こういう書き方は、数学や自然科学では、たぶん普通のことですね。ポスト人文時代の歌曲論がノヴァーリスやシュレーゲルのロマン主義を音と言葉のサイエンスとして切り出そうとしていることになるのかなあ、と思いました。

惜しいなあと思うのは、本当は歌手にも読んで欲しい本なのに、読み取られることが期待されている文脈等へのレファレンスなどの凝縮度が高くて、しかも、情報を凝縮するやり方がいかにも「人文」マインドな読書人を想定した文体なので、こういうのに慣れていないとしんどいかもしれない、ということでしょうか。

(As-dur の曲をas-mollで始めて、Ces-durを経て調号の調に到達することで、到達されたAs-durが変容の瞬間として輝く「白鳥の技法」から出発するのは、不肖わたくし、そのアムプロムプチュで卒論を書いておりますので、30年来もやもやしていた宿題を鮮やかに解いて頂いたような喜びを勝手に覚えております。As-dur即興曲の場合は、もうひと工夫して、到達されたAs-durからのゼクエンツ(有限性に囚われたさすらいの典型でしょうか)が崩れた先で、サラバンドのリズムと16分音符の錐もみから逃れた地点で8小節だけ、4度上行から順次下行するメロディーがアルカディア風に花開く、もうひとつの「楽園の幻影」が用意されているのかなあ、と思いつつ。それから、cis-mollの中間部は、as-moll/As-dur領域のリズム、音程細胞を別様に組み替えて作られているので、輝かしい「変容」を「冬の旅」風の世界に投入した裏ヴァージョン。下意識における悪夢を経ることで、主部の再現が一種の「再生」として機能していると言えるのかな、と思ったりしております。こういう習作風のピアノ曲を書いて来し方を総括したことで、死の直前の「ポストロマン主義」が可能になったのかもしれません。)

学位とは?

しかし、「何を」と「どのように」の両方が揃わないと、良い論文にはならない。修士もしくは博士という学位を資格としてゲットする場合、良い論文であることは二の次なのかもしれないが……。

そして世間は、学位持ち=良い論文を書ける人、と期待するが、実際には、「どのように」だけで勝負する論文、「何を」だけで勝負する論文が大半を占める。たぶん、この比率は制度をいじったり、投入する予算を増減してもほとんど変わらないだろう。

制度をいじったり、投入する予算を増減したり、というのとは相関することなく、良い論文を書ける人は良い論文を書いてしまう。

(傾向として修士論文に前者が多く、博士論文に後者が多い、と主張する現場教師がいるが、私は現場でそれほど多くの論文指導をしている人間ではないので、その見立てが適切なのかどうか、判断はできない。その教師がそのように誘導しているだけなのかもしれないし……。むしろ私は、色々なタイプの論文を書いてもらって、学生のヴァラエティが豊かになるほうが楽しそうな気がしてしまう。そういう教師もいるということです。)

スランプの今昔

何をやってもうまくいかない(実際にそうなのかどうかはともかく自己認識ではそうである)というような状態をスランプと呼ぶのだと思うが、何かを生活の糧にしようとしたら、どこかでそういう状態を切り抜けるその人なりのやり方を身につけてから世に出るのが通例である。

……という風に理解していたのだけれど、どうやら当世風の「つながり重視の社交」では、他責的な言い訳をひねり出し、他者を生贄にして、自分は悪くないし不調でもない、という風に強弁する手法があるようだ。

そのように責任をなすりつけられた側はたまったものではないが、パワハラが言われるようになって下位の者をイジめて鬱憤を晴らすことができなくなったものだから、反論が帰ってこない虚空にフラットな屁理屈とでも言うべきものを放って、それで憂さ晴らしをしたりするらしい。

「つながり社会」も御苦労なことである。

(以上、回答終わり)

日々歩く

ルドロジカルな文献の群れに照らすとどう言えるのか私にはよくわからないが、毎日歩くことを動機付けるゲーム(手元のラインナップは各々抜かりない感じになってきて満足)は、ストレスフルなデスクに24時間人を縛って、言葉という名の拡張現実の応酬で互いを毀損する世界像の丁度いい対案だったりしないか。

とよく寝て早起きした通勤の朝に思う。

追記 などと書いていると通勤路にカビゴンが出る。三文の徳な感じ。

誰が労働環境を適切に整備するのか、してきたのか?

全くの個人的な印象ですが、昔の日本のオケは、指揮者が振り間違えたら、ガタガタになって、あとで楽員が指揮者のことをボロクソに言うような団体だったが、今の日本のオケは、瞬時に全員が振り間違えを察知して、何事もなかったように演奏を続ける(後で「やれやれ」位は言うかもしれない)。僕は、エラソーでいながら自分では責任を取らない昔の楽隊気質がキライだった。つまり、今の日本のオケは、昔に比べて、ずっとプロフェッショナルになったということ。

という発言を見かけて、直観的に「嫌なものを見たな」と思ったのだが、1日考えて、こういうことではないかと思い至った。(考えがまとまってきたのは、今世間で話題の不幸な出来事と無関係ではない。)

この文章の書き手の仕事であるライター業に置き換えてみるといい。

全くの個人的な印象ですが、昔の日本の読者は、著者が書き間違えたら、ガタガタになって、あとで読者が著者のことをボロクソに言うような国だったが、今の日本の読者は、瞬時に全員が書き間違えを察知して、何事もなかったように読み続ける(後で「やれやれ」位は言うかもしれない)。僕は、エラソーでいながら自分では責任を取らない昔の読者気質がキライだった。つまり、今の日本の読者は、昔に比べて、ずっとプロフェッショナルになったということ。

これは、ないですよね? なるほどそのような読者のスルー力は凄いかもしれないが、読者のスルー力の上にあぐらをかく著者がいるとしたら、その人はプロじゃない。

書き換え前のオリジナルに戻ると、引用文では「ちゃんと振れない指揮者を誰が雇ったのか?」ということが問われるべきなのに口をつぐんでいる。

指揮者自身がオーケストラの経営者もしくは監督者として楽員との間に雇用・被雇用の関係(契約)があるのだとしたら、指揮者が適切な労働環境の整備を怠っている責めを負うのが当然ということになるだろう。もし、指揮者も楽員も、舞台上にはいない第三者(コンサートの主催者)との間に雇用・被雇用の関係を結んでいるのだとしたら、「なんであんな指揮者を連れてきたのか」ということになる。いずれにせよ、文句を言う楽員は、「エラソー」なのではなく、労働環境の不備が改善されるように正当な主張をしたに過ぎない。

ミステイクがあったにもかかわらず、そしてそのことに気付いているにもかかわらず、あたかもそんなものはなかったかのようにスルーする、というストレスフルな環境が常態になれば、それは、そのオーケストラが「上手くなった」のではなく、職場の問題点が実に風通しの悪いやり方で隠蔽されていることになりそうだ。そしてそのような隠蔽体質は、買い手市場で、その労働者には他に行き場がないというのであれば労働者にとっても、それを受け入れるある程度のインセンティヴがあるかもしれないが、売り手市場で、納得できないときには別の職場に移る選択肢があるというのであれば、ダメな経営者(もしくは指揮者)をのさばらせることにしかならない。

上の引用は、とってもデフレ・マインドに経営者の責任を不問に付す意見に見える。「最近の労働者は、従順でなかなかよろしい」みたいな感じがします。

実際には、「指揮者がミスをした」のか「楽員がミスをした」のか、当事者たち以外には容易に判別できなかったり、ミスや事故の原因が複合して特定の個人を責めることができない場合が多い。

もし、日本の指揮者やオーケストラが「上手くなった」としたら、誰の目にも明らかなミスを特定の個人が犯して、そのことで全体がガタガタになる、というような薄っぺらで脆弱な演奏をしなくなった、ということじゃないかと私は思う。そしてこの状態に到達できたのは、どこかのブラック企業と違って、ミステイクを隠蔽するような体質ではなく、ちゃんと楽員と指揮者が侃々諤々やり合ってきたからだと思う。

要するに、日本のオーケストラにおける指揮者は(外国人を招聘することが益々増えているので)大幅に、そして楽員のほうは(日本人が多いけれど海外の団体での演奏を経験した人たちが増えているので)漸進的に、「日本的な謙譲」とかが通用しない風に国際化しつつあるということであって、ブラック企業経営者のデフレ・マインドな太鼓持ちのレトリックを弄するのではなく、率直にそういう自負を語ればいいんじゃないか、そうしないと、頑張っているオケのメンバーに失礼じゃないか、と私は思う。私には、オーケストラの人たちは、今も(「エラソー」に見えたかもしれない昔も)与えられた条件で限りなくベストに近いことをやり続けているように見える。

(一方、音楽ライターの世界が、オーケストラにおけるほどの「国際化」による質の向上と堅牢な執筆態勢(編集・校正を含めて)を実現して風通しがよくなっているのかどうか、そこは少々疑問がないではないけれど。そして良好な労働環境というものは、構築するのに時間がかかるが、壊すのは簡単。流言飛語やいいかげんな憶測によって人間関係が脆く崩れることがあるのは、オーケストラも一般社会も同じだと思う。言葉を発する者の責任を、我がこととして改めて考えたい。)