日本を「法人化」したい人々

文章を売り買いするときには、個人が法人と対峙する必要が生じる。(大学や公的機関も、個人と組織の関係は「法人」と同じようなものでしょう。)

直接やりとりする担当者が「法人を代表した個人」としてふるまわないと、そういうやりとりは円滑に進まないわけだが、最近ときどき、「法人としての都合」をあたかも無生物主語の自動返信のような語法と文体で返すだけの人がいて、気色悪いなあ、いまどきの法人は社員教育・社会人としての躾けをちゃんとできないのかなあ、と思っていたのだが、

「マイナーはメジャーにすがって生きるしかないのだ」といわんばかりの発想をする大学教員、とか、「法人への所属や肩書きに紐付けることのできない振る舞いを示す個人などというものは、本来ありえないのだから、そのような個人の名前を覚えたり、文章に記載したりする必要はない」といわんばかりの社長体質の評論家、とか、そういうのが出てくるに及んで、症状は悪化しているのだなあと思わざるを得ない。

たぶん、大国が他の大国や同盟国と周到に段取りをして「敵」を包囲して、おとなしく服従させてしまう、というような世の中の事態と、どこかで同調しているつもりなのだろうし、個人をエンパワーしないような「法人化」に舵を切ることが、とりあえずこの島では、そこそこの人材でそこそこの成果を出して一息つくのに役立っているのだろうと思う。

でも、そういう風に個人をエンパワーしない状態で体裁を整えるだけだと、「シン・ゴジラ」がそういうのを戯画的に描いていたと伝え聞きますが、トップの判断を迅速に実装するように各部署が動く、とはならないに違いなく、ということは、彼らが「長いものには巻かれるしかないのだ」の好例だと思っているかもしれない直近の世の中の動きとは、似ても似つかない状態だと思われる。

21世紀になっても「国家」がクリティカルな場面で円滑に機能することがあるのだなあ、という風に見るのがよさそうな事態を前にして、「やっぱり長いものには巻かれるのが一番だねえ」という日頃の信念を強化する、というのは、この島が、島内事情に都合がいいように輸入品をアダプトして、手品のような「翻訳」でツジツマをあわせてきたこれまでの経緯の最終形態なのかもしれませんね。

グローバリズムという言葉さえもが、ローカルに翻訳されて、法人の看板の影に個人が身を隠す処世術の意味になるとはねえ……。

都市では「住民=市民」が「国民」であるとはかぎらない

ギリシャのポリスあたりを参照しながらナショナリズムをリベラルの側から批判的に吟味するときには、そういう視点からやるのが常道だったような気がするのだが、

だとすると、19世紀のヨーロッパの音楽文化でいえば、ワーグナーでナショナリズムを考えるというのでは不十分で、リストのようなコスモポリタン(その信奉者が提唱した「新ドイツ派」ではなくリスト本人)に焦点を当てるのがよかったんじゃないのかなあ、とふと思う。

「オレはフランツ・リストの名前は断じて口にしない」といわんばかりの傲慢気質のほうが「失われた20年」にふさわしい態度であった、ということはあるかもしれないけれど……。

ここ数年、大学の授業や社会人向け講座でオーケストラ(とその楽器)のことを主に色々考えてきて、この仕事も継続しますが、これに加えて、今年は、久々にピアノ音楽について、まとまったことをお話できる巡り合わせになりそうです。

他の都市のオーケストラの大阪来演

広島交響楽団の音楽監督が秋山和慶から下野竜也にかわって、お披露目の大阪公演があった。金曜の夜のシンフォニーホールでブルックナーの8番。色々な意味で大阪のオーケストラの最近の路線の逆を突く形になっていて、新鮮でした。

まず、大阪のオーケストラは、大阪フィルやセンチュリーが定期の2日公演をはじめて、2日のうちの1日は土日の昼間にやることが増えているわけですね。その結果、ウィークデーの夜は週に5回あるけれど週末は2日しかなくて、しかも、(本当にこれが有効な判断なのかどうかわからないけれど)給料日以後の月の最後に定期演奏会をやりたがるので、週末の同じ日にシンフォニーホールとフェスティバルホールといずみホール、さらには京都のコンサートホールやロームシアターや滋賀のびわ湖ホール、兵庫の芸文で公演が重なることが増えている。しかも、年度予算を消化するべく公共施設は3月に公演をやることが多いので、3月の週末は大変なことになっていた。

広響の公演がウィークデーの夜になったのは、本当は週末にやりたかったのに週末は大阪の地元団体に押さえられていた(もしくは自分たちが自分たちの地元広島で別の公演を予定している)、ということだったのかもしれないけれど、結果的に、昔ながらのウィークデーの夜公演になって、実際に行ってみると、やっぱり、都会のクラシックコンサートにはナイトライフが似合う、かえってこのほうが落ち着いて音楽を楽しめて、いいんじゃないか、という気になった。

しかも他のオケの公演が手薄な月の中旬は、他と重ならないから行きやすい。

(福島周辺は、全盛期に比べると、ホテルや放送局がなくなって寂しくなったけれど、それなりに新しいお店もできているようだし、終演後は梅田に出たっていいわけですしね。)

広響は、定期演奏会の大阪公演という位置づけで、11月にもまたシンフォニーホールに来るらしい。(ストラヴィンスキーの例の新発見の曲を追加でやるらしい。)

そういえば、京響は随分前から年に一度大阪で演奏会をやっているし、讀賣日本交響楽団も年に数回来ますね。山形交響楽団はいずみホールに来る。下野竜也は、讀響と契約していた頃、このオーケストラと大阪公演をやったこともあったと記憶します(聴きに行くことはできませんでしたが)。

N響の地方巡業は放送局主催の独自ルートなので、何がどう動いているのか外部からわからない状態ですが、他の国内都市のオーケストラの大阪公演が次第に増えつつあるようです。

オーケストラにとって、同じ演目を何度も再演することは、経営・労力の面でも、音楽を熟成させるという意味でも、色々メリットがありそうだが、地元の街で同じことを何回もやったら飽きられそう。大阪フィルなどは、2〜3年に一度同じ曲を再演するくらいのペースでレパートリーを回しているように見えるけれど、これも十年二十年続くと、いつも同じ、と思われかねないですよね。他の都市に遠征するのは、そういう意味で、うまいアイデアだよなあと思います。

(国内にオーケストラの数が少なかった頃には、東京のオーケストラも大阪フィルもあっちこっちに巡業していたわけで、オーケストラという事業体は、ひとつの街に拠点を置きつつ、その街のなかで自己完結するには規模が大きすぎるのかもしれませんね。)

で、結果として、10年来、「大阪に4つもプロのオーケストラがあるのは数が多すぎる、統合しろ」という無責任な声がずっとあったわけだが、今起きていることを眺めていると、実は4つでも足りないくらいの多様性が求められているのではないか、という気がしてくる。広島や山形や讀賣響が、そういう、地元のオケがくみとることのできていない需要を満たしつつあるんじゃないか。

かつて大阪フィルで修行して、讀賣響と一緒に来阪した経験のある下野竜也が、広島響と契約したとたんに大阪公演を積極的に打つのは、偶然ではなさそうに思えますね。

お客さんを囲い込んで、手を変え品を変えおもてなしして逃げられないようにする、というだけでは、一定の水準を超えられない限界に達する。そういうことをすり切れるまで続ける「負のスパイラル」にはまりこむと、その先は「希望は戦争」(そうすれば街の人口・住民が劇的に変化する)みたいな極論になるのでしょう。ひとつの土地に特定の作物を休みなく植え続けると、土地がやせるようなものです。(農家の生まれの母がよく言っている。)土地がやせたときは、土を入れ替えないとダメですよね。

とはいえ、オーケストラの場合、お客さん=街の住民の入れ替えは不可能なので、お客さんに自分たち以外の団体を楽しんでもらいつつ、自分たちは他の街へ出て行くことになる。そういうことなのかな、と思います。

工業製品としての「音楽の散文」の現在

あらゆる音の断片がハリウッド映画音楽の様式でDTMされるところまで来ているのですね。

フィレンツェのカメラータのモノディがナポリでリブレットとコンティニュオ(和声づけ)の手工業的な分業で量産されるようになって、グルックが鍵盤楽器の代わりにオーケストラの伴奏(アコンパニャート)を使って話題になると、マイヤベーアがこれをパリ・オペラ座のブルジョワ向け高級娯楽劇音楽として生産する体制を整える。マイヤベーアの助手あがりのワーグナーがそうした「散文的」なオーケストラ・サウンドにライトモチーフを流し込むことに成功して、この技法が亡命ユダヤ人によってハリウッドの映画音楽に持ち込まれ、ほぼあらゆる音の断片をライトモチーフ扱いでオーケストラ化する音楽工場が完成する。で、DTMが工業製品を個人の趣味で製作する可能性を開いて、いまここ、なわけだから、400年がかりの何段階ものイノベーションの堆積ですね。

(ところで、岸田繁の交響曲第1番がそうだったけれど、DTMで製作したオーケストラ・サウンドをオーケストレーターが人力オーケストラに書き直したもの(書き戻したもの?)をライヴで演奏しても、いまいち面白くないことがある。リスナー目線で「ここにこういう音が欲しい」という発想で音を並べたDTMサウンドは、そのままでは人間(オーケストラのプレイヤーたち)が弾いて面白いパート譜にならない、ということだと思う。舞台劇の群衆シーンの演出と、映画でいかにも群衆がうごめいているように思わせる演出とは別物だ、というのに似ているかもしれない。ワーグナーですら、管楽器の2番奏者の譜面は機械的で吹いても面白くないことがあるようで、佐村河内/新垣や岸田がお手本にしたブルックナー(オルガン奏者でオーケストラをあとづけで勉強した)のシンフォニーは、ワーグナーに比べると、さらにパート譜がつまらないらしい。映画音楽は、通常、録音・編集されたサウンドトラックとして納品されるので、シンフォニーより、かなり敷居が低そうですね。)

変数と観察

「空の範疇」とは、要は数学の解析で言う変数 variable の設定のことではないか。中性子の予想は、まさにそういうことですよね。データの解析において設定された変数(あるいは代数方程式で言う未知数)を裏書きする現象があとから発見された、と。(電子や中性子は五感でキャッチできないので、科学哲学上の議論を巻き起こしてはいるけれど。)

そういう手続きに empty の語が導入される文脈は、ちょっとよくわからない。ヒトが解析アナリシスにおいて新たな変数を導入したり補助線を引いたりすることができるのは、空の範疇が知性にアプリオリに装填されているからだ。ギブソンが言うアフォーダンスもこれを指し示す。と言うようなニューサイエンスの基礎論なのでしょうか。

逆に、どう解析するか、ということを後回しにして、人はどんどん観察してデータを蓄積することがある。

失われた20年は、複数の島宇宙にデータが渦巻いていたから動き過ぎないクールな理論が要請されたが、巧みに動いてデータを獲得する技、何かを動いて取りに行く態度か不要になったわけではなかろう。

空の範疇とデータの過剰の両方が揃わないと、知・科学は回らないんじゃないかな。

(前に少し書いたリバーダンスの話を舞曲史の授業の導入に使おうと準備しながら、ふと、そういうことを考えた。理論と観察・フィールドワークの関係のイロハを話そうと思うのです。手付かずのフィールドというユートピアを期待できない21世紀の状況を前提にして。)

21世紀の詩と散文

SNSにあまりにも特化して言葉をつむいでいると、140文字の散文詩、限定された文字数と言葉の特定の流通形態においてのみ意味や効果をもつ言葉の連なりを生成する技術が発達して、無意味もしくは非意味に逢着して消耗することが知られている。

140文字の散文詩を複数組み合わせて編集する、というやり方で自由散文の世界へ出る方法が模索されており、人間がそのような編集を行うツールとしては、古くはカードを使った発想法が流行り、最近はアウトライン・プロセッサーが結構普及しているようだし、AIによる自然言語の運用には、そのような編集を高速化してビッグデータの解析を行っている面があるようだ。

SNSが指し示す一種の「詩」(自律言語という20世紀的・「言語論的転回」以後的な意味における)の無意味・非意味のブラックホールは、そのようなやり方で上首尾にふさがるのだろうか。そしてそのとき、「近代」が発見したタイプの「詩」(とりわけ固有の韻律を確立できなかった日本の口語文によるそれ)はどうなっていくのだろう。

(これは、要するに、twitterで面白く書こうとすると誰もが増田聡になってしまう、という症状、そして twitter が一発芸的な宣伝・プロパガンダ(もっともらしくポスト・トゥルースと呼ばれることもあるような)で埋め尽くされてしまう現状に、私たちはこれからどうやってつきあっていけばいいか、ということなわけだが。)

「マイノリティはメジャーにあやかる」と断定する者:芸術学の位置を詩学のアリストテレスに遡って自嘲することから何が発見できるか?

音楽は「理論的にマイナー」な芸術なので、哲学者や思想家がちょろっと(当人にとっては非本質的な仕方で)音楽に言及した箇所を、音楽家や音楽研究者が喜んで拾い出し、過剰な解釈や意味付与を行う、という傾向がありますね。文学や美術の研究者はあまりやらない(その必要がない)ことだと思います。

「音楽」だけじゃなく、芸術全般がルネサンスまでは「理論的にマイナー」だったんじゃないのかな。

アリストテレスが詩学という書物でちょろっと(当人にとっては非本質的な仕方で=アリストテレスの他の書物とは写本の伝承からして別系統である詩学という書物で)演劇に言及した箇所を、美学者や芸術研究者が喜んで拾い出し、過剰な解釈や意味付与を行う、という傾向がありますね。倫理学者や自然哲学者はあまりやらない(その必要がない)ことだと思います。

(whataboutism 風の混ぜ返しになってしまって恐縮ですが。)

芸術において音楽がマイナーに見える、というだけであれば「西欧(もしくは人類?)の視覚中心主義」という診断を下すことができるかもしれないけれど、より広い文脈で芸術全般がマイナーだ、ということになると、「視覚中心主義」という診断の妥当性が揺らぐ、少なくとも、芸術における音楽の地位をその証左として提出する前に吟味すべきことが出てくるのではないかしら。

マイノリティであるとはどういうことか、ある現象がマイノリティであるという診断は相対的でしかあり得ないわけだが、そのような相対性から一般的な法則を取り出す思考操作は、知的・科学的であると言えるのか。それが科学的推論だと言いうるとしたら、その推論はどのような方法と理念によっているのか。ポピュリズムがそうであるような数の争い、ある事柄の支持者が多いか少ないか、という統計を推論の妥当性の判断材料にする、というのは、あまり従来の知・科学ではなかったことのような気がする。AIの活用を見据えた21世紀の科学なのだろうか?

歴史学や社会科学は個人ではなく集団を扱うから、ある推論や現象の支持者・信奉者が多いか少ないか、という統計を活用するのはごく普通の操作だと思うけれど、哲学(者)にとって、「私の思考の支持者ははたして多いのか少ないのか」という評判の自覚は何を意味するのでしょうか。哲学(者)が遅ればせながらにお年頃の思春期を迎えて、モテ/非モテを気にするようになったということなのか、そして、思春期的なモテ/非モテの自意識こそが哲学における脱近代・ポストモダンだ、ということになるのでしょうか。

哲学は、今さらそこに拘泥しなくても、もとからそういうことがひととおり読み込まれていて、成人の処世術の上に築かれていたのではないのかと思わないではない。つまり、芸術や文学のなかに、ある年齢に達して一定の経験を経ないと理解できないものがあるように、思考・哲学にも、それを理解できるようになる年齢みたいなものがあるんじゃないか。マイノリティの自意識が、そのような成人の思考に持ちこたえるか、となると、少々怪しい気がしないでもない。

うっかりすると、「マイノリティはメジャーにすがって生きていくしかない、世の中とはそういうものだ」と言っているだけになってしまいそうなのだが。

(「勉強の哲学」を読むと、ユーモアとキモ系をキーワードにして、マイナー研究の倫理についても、ヒントが得られるのだろうか。)

名前を売りたい人々

十数年前の大河ドラマ「新撰組!」に岩倉具視が伊東甲子太郎の名前を覚えようとせずに侮辱する場面があったが、今思えば、あれは京のお公家さんの陰険さの表現というより、三谷幸喜がどこかで経験したのかもしれない現代の芸能界の風景だったのでしょう。

宣伝・広報とはタレントの「名前を売る」ことである、という面がおそらくある(あった)。売名行為の語があるように、悪評であろうと名前が広まればこっちのものだ、という考え方が、今では「昭和的」と懐古的に語られてしまうかもしれない芸能界・マスコミ・ワイドショウの日常だったような記憶がかすかにある。

テレヴィジョンという最先端のメディア・技術、マス・コミュニケーションという時代の花形である舞台で、実に野蛮なことが繰り返されていた時代があったわけである。

そして次第に薄れつつある記憶をたどると、そのような野蛮な場所を物語風に描写するバックステージものでは、タレント/スターの「名前」を売るのと裏腹に、決してその名前が表に出ることのない無名のスタッフたちがうごめくことになっていたような気がする。「お前の代わりなんていくらでもいるんだ、身の程をわきまえろ」とか言われちゃうメロドラマである。

現在は、メディア状況も、文化芸能が花開く舞台も、そんな野蛮な時代とはずいぶん変わりつつあるわけだが、今でも相変わらず、「名前を売る」が宣伝・広報の本命であり、そのために身を挺する「名もなき者」がその背後には膨大にいて、日々メロドラマが繰り広げられていると信じ続けている化石のような人たちが、おそらくいるんだろうと思う。

高齢化社会なので、そのようなノルタルジー市場もある程度延命してはいるのだろう。

「私は決してお前の名前を口にしない」

というのは、もしかするとそのような後期高齢者のノスタルジックな世界では、ようやく手に入れた権力の行使なのかもしれないが、でも、実際のところは、そのように古くさい作法で売買するまでもなく確かにそこに存在している「名前」を前にして、どう対応したらいいのかわからない臆病者が、その名前を口にする勇気もなく怯んでいるに過ぎなかったりするのかもしれない。

憐れなことである。

当節のクラシック音楽の宣伝・広報では比較的よくある話な気がします。

(でも、それはそれとして、広瀬大介さんは「音楽評論家」なのでしょうか? オペラ学者の翻訳上のこだわりが成功していたかどうか、というだけの話だろうに、どうしてストレートに物が言えなくなる仕掛けをあっちこっちに作るのだろう。)

P. S.

昨年末に、演奏会の帰りの京都の地下鉄で、旧知の業界の女性たちと一緒の「彼」と同じ車両に乗り合わせたことがあった。悪戯心を起こして、私がそのなかの一人に耳打ちして質問させたら、「彼」は昔話をはじめて、「へえ、すごい」と感心されて、めでたく会話の中心に収まった。「東条さんはグルッペン(の日本での上演)を3回とも聴かれたんですか?」という佐藤千晴の問いかけは、わたしの入れ知恵なんですわ(笑)。たぶん「彼」は、こういう接待で日々を過ごしているのでしょう。

日本における Nationalities と Nationalism

「有事」という言葉が、特定の思想信条の人たちのジャーゴンではなくなって、実際に「箏が有る」状態になってしまうと、この島に住む者にとって、Nationality の定義はどうしても一部変更を迫られるわけですよね。「団」や「連」を組んでいる方々にとって、その成り立ちや定義に関わる Nation のありようが変わってしまうことになるかもしれないわけだから。

Nationalism をめぐる過去十数年のこの島での議論の盛り上がりは、そういうことを準備する上で意味があったことになるのでしょうか。

そして例えば、尹伊桑や白南準について、この島では、今後、誰がどのようなスタンスで語り、取り扱うことになるのでしょうか。

伊東信宏さんが旺盛に論じていらっしゃるようなバルカン半島、中央ヨーロッパの音楽文化の複雑な襞は、中央ヨーロッパで Bundesrepublik と Demokratische Republik を隔てる壁が取り払われたが故にせり上がり、顕在化したところがあるわけですよね。

東アジアでは、それから四半世紀以上経っても複数の人民共和国が存続していて、ひょっとすると中央ヨーロッパにおけるリゲティやクルタークと比較して考察する意義があるかもしれない音楽家や芸術家の動きを語ることは今も難しい。

この状況もまた、しかし動く、ということになるのでしょうか。

翻訳字幕は職人的経験値がものを言う

前にびわ湖ホールと新国立劇場が相次いでコルンゴルトの死の都を上演したときに、字幕の善し悪しではびわ湖ホールの圧勝だな、と思ったことがあるので、東京の音楽祭の字幕がいまいちではないか、という疑念が出ることは十分ありうるし、予測可能な問題が顕在化したのかな、という気がする。(残念ながら公演を実際にはみていないので、「気がする」だけで、断定することはできないが。)

山崎太郎さん(びわ湖のコルンゴルトは彼の翻訳ではなかったけれど)のリングのDVDの字幕は画期的に明快で素晴らしいと思う、と前に書いたことがあったと記憶する。

翻訳者や文学者が言葉のプロとして長年の経験で蓄積している翻訳技術に音楽学者(広瀬さんは評論家というより学者ですよね、彼の言動に評論家として勝負している形跡はほとんどないし)が謙虚に学ぶ。そういうことが求められる場面というのは、一般論としてありうるだろうなあと思う。

(森鴎外の中途半端にペダンティックなグルック「オルフェオとエウリディーチェ」の訳詞を東京芸大の楽理がありがたがったり、日本の音楽学者の言語感覚は、ときどき狭いマニアックな場所で暴走することがある。最近の例では、堀朋平もちょっと危うい。)

今回の東条氏の疑念がこれに該当するかどうか、断定はできないし、これは一般論に過ぎないが。