バレエにはワーグナーがいない

ワーグナーは台本執筆から作曲、指揮、演出、劇場設計まで全部ひとりでやってしまったが、バレエにはそんな風にすべてを掌握する「王」はいない。

ディアギレフは、逆に自分では何もしないことによってバレエ・リュスにインプレサリオとして君臨できたのかもしれないし、そこが19世紀のワーグナー時代の劇場と20世紀のディアギレフ時代の劇場の違いかもしれないが。

劇場史家も舞踊研究家も音楽学者も、誰ひとり「全体」を掌握できないところが、舞踊の面白いところかもしれない。

そのうち、自ら踊り、音楽に通じて、劇場を闊達に語るバレエのスーパーマンが実演家として、あるいは研究者として登場するかもしれないけれど。

ところで、舞踊という視点で思い返すと、バレエ・リュスの舞踊のなかで、いわゆる「モダン・ダンス」と同調するような本格的に前衛的な振付は、実は少数かもしれない。はっきり前衛的な振付だったことが確認されているのは、ニジンスキーの「春の祭典」と妹ニジンスカが振り付けた「結婚」のほかに何があるのだろう。

バレエ・リュスが見かけ倒しで実はそれほど新しくなかった(ロシアの帝室バレエの亜種に過ぎなかった)ということではなくて、舞踊の振付における20世紀前半段階での「新しさ」は、いわゆるアヴァンギャルトな身振りとは別のところにあったのではないかと思うのです。

ステパノフのノーテションから復元されたプティパ振付の黒鳥(「白鳥の湖」)の踊りは、まだそれほど大きく力強くはなかったらしい。そんな時代、せいぜいイワノワの振付で鳥の動きを描写する新しいアイデアが出てくる程度だった時代に、「火の鳥」のカルサーヴィナは、王子様に媚びないまったく新しい役柄だったのではないか。そしてむしろ、現代の力強い黒鳥のほうが、火の鳥ありきで、その先に出てきたのではないか。

バレエ・リュスがバレエを再起動した、と言うとき、私はそういうストーリーを想定しています。

20世紀文化史のシンボルとしての「春の祭典」(あたかも世紀末のシンボルとしてのワーグナーへの対抗馬であるかのような)というのとは別のストーリーでバレエ・リュスを語ることが可能ではないかと思うのです。

バレエという「20世紀の」舞踊

研究では、新しく得た知識を寝かせてから出力すべきなのかもしれないが、日々の授業では、取ってだしじゃないと追いつかないことがある。

バレエ・リュスを「ブーメラン」(パリで撒かれた種がロシアで花開いて「バレエ・リュス」として西ヨーロッパに戻って来た)というだけでは不十分で、現在の国際化してスタイルが標準化したバレエは、バレエ・リュスが欧米を席巻した20世紀(彼らはアメリカにも行ったし、団員たちはのちに上海や日本にも来た)に再起動して「20世紀に創られた舞踊」だろうと前から思っていて、とりあえずその概略はこうなると思う。

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そしてこの、周縁で育った目覚ましいパフォーマンスが文化の中心地に還流してジャンルを再起動するパターンは、実は20世紀のヨーロッパの芸術・文化全般について大なり小なり言えるのではないか。

少なくともクラシック音楽(の商業化した演奏)は、ほぼバレエと並行した経緯で今日に至っているのではないかという気がする。

「音楽の国」という議論は、たぶん、一方のヨーロッパ(ドイツ/オーストリア)の帝国主義時代のアイデンティティという話と、他方の北米で成功したがる20〜21世紀の東アジアの人材たちの話に分けてしまうのではなく、その両方がリンクしたダイナミックなプロセスとして見た方がいいんだと思う。

20世紀のクラシック音楽におけるレナード・バーンスタインの役割は、たぶん、舞踊におけるバレエ・リュスと何かが似ている。

(こういう放言は、社会的地位や常勤サラリーマンとしてのしがらみのある博士様のやることじゃない。そういうのは、失うもののない評論家に任せなさい(笑)。)

「ごん狐」の脚色

大栗裕が関西学院大学マンドリンクラブのために音楽を付けた「ごん狐」の朗読台本は新美南吉の原作そのままではなく、放送作家の上原弘毅が脚色している。

上原の台本では、合唱(大学の混声合唱エゴラド)が村人役を演じて、前半から兵十をからかう。

いかにも1962年の放送劇の発想だが、ごん狐と兵十の周囲には、村人たちの「無責任な世間」があって、兵十が盗人と疑われて村人から殴られるシーンも、原作のようなごん狐の事後の推測ではなく、舞台上で演じられる。(たぶん、このシーンを手がかりにして、上原は村人像を膨らませたのだろう。)上原の脚色では、「世間体」(うなぎを獲れなかったことを村人にからかわれた恥ずかしさ)と、母にうなぎを食べさせられなかった後悔が絡み合って、兵十がごん狐への恨みを募らせる。

「ごん狐」の受容としては、「んなこと、関西で人知れず勝手にやったことで、大勢に影響はない」話だが、大栗裕の音楽物語を伝承している人たちにとってはこれが「ごん狐」だし、こういう話に情の深い音楽を付けるのが大栗裕という作曲家なんですよね。

大栗裕のややこしさは、こういうところだ。

オペラの巡業、19世紀南米の音楽と劇場

以前、細川周平先生から、大阪弁で歌うモダニズムといえば笠置シヅ子だろう、というヒントをいただいたことは大変ありがたく、いつか学恩に報いなければと思っていますが、

今度はブラジル音楽についてのお話をお伺いする機会があり、再び色々考えさせられた。

ゴメスが Il Guarany をスカラ座で初演したのは1870年だから、ちょうどプティパがペテルブルクで次々異国趣味の新作を上演したのと同じ時期になる。

1870年代には、できたばかりのパリのガルニエのオペラ座を模してリオデジャネイロにオペラハウスができたとのお話だったが、そういえば、作品コンテンツ、劇場施設だけでなく、イタリアのオペラ団が南米に巡業するしくみがあったはずだと思って確認したら、既に1857年にはブエノスアイレスに初代コロン劇場が開設されて、フェニーチェ劇場での初演から4年しか経っていないトラヴィアータがこけら落としだったらしい。

鉄道が列車と線路と駅を組み合わせたシステムであるように(cf. シヴェルブシュ)、劇場・巡業・作品コンテンツがセットになってオペラやバレエが拡大して、ロシアや南米がそこに組み込まれたのが19世紀後半だったんだなと思う。

劇場ができてようやく本格的な巡業がはじまる、というのは、東京の今のオペラと一緒ですね。(日本が市場に組み込まれるのは、南米から100年遅れたわけだ。)

そしてケークウォークやサンバを聴いていると、舞曲史を半期でやるなら、本当はルネサンス、バロックの宮廷舞踊までで5回、バレエを5回にまとめて、20世紀のジャズ、サンバetcを5回かけるくらいじゃないといけないんだろうなあ、と思いました。課題山積。

(19世紀末から20世紀初頭の「クラシック音楽化」されたケークウォークとサンバは、ほとんど同じようになっている場合もあるけれど、ひょっとすると、シンコペーションをどう和声づけするのか、というあたりから分析できないものか、と思ったりします。)

バレエの考古学

マリインスキー劇場がプティパ時代のバレエをステパノフ方式で記録していた、というのは重大なことのようですね。

少し調べただけでも、解読結果がまとまってくれば、従来ざっくり「プティパ版」と呼ばれていた振付のどこがプティパ時代のもので、どこがプティパ以後の変化なのか色分けできそうだし、バレエの振付や技法の歴史記述を精密にするだけでなく、ロマンティック・バレエの「プティパ版」以前の姿を推定したり、チャイコフスキーとプティパやマリインスキー劇場の関係を論じたりすることにも役立ちそうですね。

「白鳥の湖」再演時のプティパ担当部分や「眠れる森の美女」のノーテーションの復元例を見ていると、プティパの振付は現行の「プティパ版」より演劇的なマイムが多そうだし、音楽(チャイコフスキーの)に寄り添う振付というより、踊り手のアクロバティックな技術を文脈への配慮をほとんどせずに挿入する発想が結構残っていたように見える。

「白鳥の湖」で言うと、むしろ、オデットと白鳥たちの場面の有名な振付とか、プティパの次の世代のイワノフのほうが脱因習的なアイデアを試していたようですね。「白鳥の湖」は、ロシアのクラシック・バレエの典型というより、モスクワで制作された「最後のロマンティック・バレエ」が、イワノフの手で、ペテルブルクの「最初のポスト・プティパ様式」に変換されたように思えます。

そして、プティパは「振付ありき」で作曲家に音楽を発注した最後の世代、イワノフは、(チャイコフスキーの)音楽に導かれて振付や細部を洗練させる姿勢を打ち出した最初の世代(バレエ・リュスを準備するような)と見た方がいいのかもしれませんね。その先に、20世紀の「クラシック・バレエ」のスターたちが出てくるわけだ。

(20世紀のダンサーが古典の解釈でスターになる経緯は、クラシック音楽におけるスター演奏家たちの登場経緯とちょっと似ている。)

どこかの大学院には、すでにステパノフ記譜法に目を付けて色々準備しているバレエ研究家がいそうですね。そういう人が世に出てくるのは、たぶん、それほど先のことではないんじゃないか。

前衛音楽で踊る

岡田暁生は朝日新聞の批評でクセナキス&ダンスを「観ながら聴く」ことができなかったことを告白している、というか、「観ながら聴く」という態度を拒否しているが、ジャズで人が踊ることを彼はどう考えているのだろう。ジャズはいいけど前衛音楽で踊ってはダメなのか。

(日経大阪版夕刊の批評は、明日掲載予定と聞いています。)

音楽批評にとっての音盤と放送の恩恵

先日ふとそんな話題になったのだが、

関西在住で関西に軸足を置く音楽評論家、というのが可能だったのは、

第一に20世紀後半のLPレコードによる音楽鑑賞の普及。これのおかげで、どこに住んでいようと、グローバル(当時の言葉で言えば「コンテンポラリー」)な音楽文化にアクセスできて、音楽文化のフルメンバーとして発言できたのだと思う。

(浜松生まれで名古屋大宇宙物理に学んだ横原千史や、金沢生まれの大久保賢あたりが、この確信をベースに自らを音楽評論家と名乗ることのできた最後かな、と思う。

以前、山田治生が東京交響楽団を批判したドルトムントの評論家を「地方評論家ふぜい」呼ばわりしていたが、これは逆に、もはや、音盤がワールド・ワイドな音楽文化のメイン・フィールドである、という了解が解体しつつある21世紀初頭の感覚なんだと思う。音盤とは関係なく、東京は「ワールドクラス」の音楽家が日常的にやってくる都市であって、その国際的なプレゼンスはドルトムントなどはるかに凌駕しているはずだ、ということを、山田さんは、音盤ベースではなく、興行ベースで心の底から信じているように見える。音楽ジャーナリズムにおける「ネオリベ山田」の登場は、下部構造(の変化)を受けているのでしょう。(そういう論陣を張るなら、東京が名古屋・大阪・福岡に圧勝の国内ナンバーワンなのは誰の目にも明らかだとしても、シンガポールや韓国や中国と比べたときの東京の「クラシック音楽消費地」としての市場価値を客観的に裏付けないと単なる愛国、お山の大将に堕落すると思いますが……。東京は本当に東アジアの「音楽の国」の盟主たり得るのか?))

そしてもうひとつ、関西には、民間放送をベースにする「テレビ文化人」と言うしかない人たちがいた。やしきたかじんの後ろ盾で橋下徹が出てきたのが最後で、発祥は民間放送のラジオ、テレビの誕生まで遡ると思う。大澤壽人は朝日放送ラジオ開局当時の専属だし、戦時中にJOBKでたくさん仕事をした朝比奈隆は戦後、まちがいなく「テレビ文化人」だった。いまでは佐渡裕がそのあとを継いでいるし、少し上の世代まで、音楽評論家も、ラジオやテレビの番組を持っていた。

レコードとラジオ・テレビ時代の音楽評論、というのは、柴田南雄や吉田秀和だってそうだったのだから、たぶんそのうち、ちゃんと整理しないといけないトピックなのだろうと思う。

「テレビ文化人」が北新地(朝日も毎日も開局当時はあのあたりに放送局がありました)やミナミを闊歩した時代というのは、もう、ほとんど具体的な像を結ばなくなっている伝説の領域になりつつありますしね。

(1980年代以後の「音楽学者による音楽評論」は、たぶんこうした、音盤と放送に軸足を置く音楽評論への対案として機能したんだろうと思う。)

Google検索実習:アルディッティ弦楽四重奏団と白井剛の初共演はいつですか?

先の京都ロームシアター公演は事前に当世風の「攻めの広報」が展開されて、

好評だった2008年の『アパートメントハウス1776/ジョン・ケージ』以来の顔合わせ

という文言を色々なところで何度も目にすることになった。

だが、この文言は少々ミスリードだと思う。

白井剛自身は、

2006年と2008年にジョン・ケージの音楽で共演した、アルディッティ弦楽四重奏団と、再び。今回は、ヤニス・クセナキスです。

と自ら情報発信して、2008年が最初ではないことをわからせてくれるが、これでも実は十分ではなく、どうやら、2006年の日本ツアーで、ジョン・ケージ/アーヴィン・アルディッティ編曲「44のハーモニー(ダンスヴァージョン)」 とクレジットされたパフォーマンスがこのプロダクションの世界初演。これが2007、2008年にアルディッティ弦楽四重奏団+ケージ+白井剛「アパートメントハウス1776」として再演された、ということのようだ。

(あと、2012年にはアルディッティ四重奏団がケージで狂言師や能楽師と共演したこともあるらしい。こうなると、はたしてアルディッティ側がダンスとのコラボに熱心なのか、日本の興行師がこれを鉱脈だと考えて次から次へと企画を持ち込んでいるのか、今手元にある情報だけでは、判断がつかなくなってくる。)

ポスト・トゥルース時代の「攻めの広報」は、こういう面倒くさい事情をウソでもホントでもどっちでもいいから、ぎゅっと圧縮して、キャッチーな言葉でエコーを生み出さなければならないらしいので、まあ、いいんですけどね。

(検索ワードを工夫すれば、上記の情報はGoogleでさほど時間をかけずに判明しますし。)

でも、「攻めの広報」って、言うほどええことなんですかね?

(7月のバーンスタイン「ミサ」が23年ぶりなのは、私自身が23年前に渋谷で聴いているので、確かにそのとおり、と納得できますが、先月の関西二期会「イリス」は、過去の上演記録がどうなっていたか、井上道義がいつどこで何回やったのか、関係者の言うことは曖昧で、結局自分で調べないといけなかった。主催者さんは、お客が入って一安心かもしれませんけど、ポスト・トゥルースな「攻め」のせいで、周りは情報がワンワン響きすぎて、えらい迷惑しとります。騒音問題とちゃいますかねえ。)

洋装の囲碁、和装の将棋

競技とアートの境界領域はスター主義を発生させやすい性質があるようで、フィギュアスケートは近年の大成功を収めた鉱脈なのだろうと思う。で、これはまだ国別対抗戦(いわゆる「グローバル」)なのでニッポンのローカルな盛り上がりへの一定の歯止めがありうるけれど、将棋は、なぜか誰も指摘しないけれど、チェスや囲碁と違って日本国内でしか行われていないゲームですよね。

(囲碁の国内公式戦は畳に座るが、数年前に、NHKの番組が国際棋戦と同じく椅子に座る形に変わった。そして囲碁の棋士はたいてい洋装だ。ところが将棋の対局はNHKも畳に正座だし、将棋の棋士は若い人でもたいてい羽織袴を身にまとっている。あれは、逆に異様だし、ここ数年の「作られた伝統」だよね。)

だから、将棋の天才少年と思しき人材の登場は、たまたまAIが囲碁のトップ棋士を打ち負かした直後の話題ではあっても、随分、現象の文脈が違うと思うのだけれど、このあたりは、誰かがちゃんと整理しているのだろうか。

自分たちに都合がいいように文脈や切り口を絞り込んだうえで、「ニッポンにはこんなに素晴らしい人材がいます!世界へ羽ばたけ、次世代ニッポン!!」みたいに盛り上げようとするときに、将棋は、フィギュアよりも相撲よりも、はるかにやりやすいお手軽ジャンルなのではないか。

そしてそのようなお手軽ジャンルで、スターの低年齢化(=青田買い)が限界まで進んでしまっているように見えるわけだが、いいのだろうか?

(小学生名人からそのままプロ棋士になって昨年のNHK杯優勝で国内公式タイトルをすべて獲得してしまった囲碁の井山裕太は、喧嘩上等な乱戦好みの派手な気風で国内の囲碁を変えてしまった印象があり、それは最近の大陸の囲碁のスタイルとも共通点がありそうに見えるけれど、でも、国際棋戦では勝てないし、先日はAIにも歯が立たなかった。

井山裕太を受け入れるのが、和装の将棋とは随分違うところへ来た現在の「洋装の囲碁」なのだと思う。彼は将棋少年への周囲の盛り上がりをどういう風に見ているのだろうか?)

Graphvizで「創られた説」の資料を作った

去年覚えたGraphvizを授業の資料作りに使ってみた。

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やや誇張混じりのおおざっぱではあると思いますが、こういう風に資料の現状をまとめて、バレエの組み立てを整理して論点を追い込んでいくと、バレエ・リュス/モダン・ダンスの先で20世紀に復興したクラシック・バレエをオーセンティックな舞踊として伝承する日本のバレエ教室とは何なのか、という、どこかで浅田真央のフィギュアスケートへの熱狂ともつながりそうな話の足場を掘り崩すことになるのだろうと思っております。

こういう話をすると、敏感な人が何かを察知して、反発されてしまうわけですが、ストレートに反発のコメントをいただくことが私にとっては勉強になります。