クラシック・バレエと20世紀の身体、クラシック音楽と20世紀の聴覚文化

音楽と舞踊、結局、半期の授業では20世紀に入って「クラシック・バレエ」が確立したところまでしか扱えなかったが、「バレエ」と呼ばれるヨーロッパの劇場舞踊は、歴史的にはバロックまで起源を遡ることができるとしても、歴史的な連続性を言うことはほぼ無理で、現行の振付や身体技法は、どうやら大半を20世紀の産物だと考えたほうがいいようだ。

音楽に関しては、バロック後期(バッハ、ヘンデル)から20世紀まで続く「クラシック音楽」を連続的な歴史として語ることができるけれど、「クラシック・バレエ」は20世紀の大がかりな身体の変容の結果として、モダン・ダンスやジャズとほぼ同時に誕生した、ということではないかと思います。

ただし、演奏様式や受容形態までを視野に入れると、「クラシック音楽」も20世紀に大幅に変容している。

「クラシック・バレエ」のような現象を参照すると、「クラシック音楽」のほうも、数百年の歴史を背負う西欧芸術音楽としてのクラシック音楽と、20世紀の聴覚文化の一翼を担っているクラシック音楽と、妙な言い方ではあるけれど、二種類のクラシック音楽があるのかもしれない。

たぶん、いわゆる「クラオタ」が愛しているのは、「クラシック・バレエ」に相当する20世紀の聴覚文化の一ジャンルとしてのクラシック音楽なのだと思う。

そしてそのような20世紀の聴覚文化としてのクラシック音楽にどれだけ習熟しても、そのような「20世紀に誕生した聴衆」は、そのままでは、西欧芸術音楽としてのクラシック音楽を扱い損ねることがしばしばあるから、それで実演家や音楽学者とコミュニケーションが成立しなかったりするんだと思う。

Music Communication/Musikvermittelung は、そういう図式をこしらえると、けっこう大事な分野かもしれない。

ヤンキー都市大阪vsネオリベ都市東京:大阪の「紙の文化」はどうなっているのか?

先日、バーンスタインのミサのロビーで、知り合いに「どうして大阪は不良っぽい企画が好きなんですか」と訊かれた。

なるほど、現在の大阪の民間ホールのオーナーや看板企画(とその旗振り役の人たち)の顔ぶれを見ると、大阪維新の政治家と似たような「ヤンキー感」が表に出ているかもしれない。

(この4、5年で急速に風向きが変わった感触がある。)

文化・アートが相変わらず公的補助頼みである現状ではそういうことになりがちで、それは、東京のクラシック業界の現在のネオリベ風味のイケイケ感が、石原慎太郎や小池百合子のキャラクターとどこか似ているのと大して違わないことだと思うのだけれど、そんな風に他人事として受け流すのではなく、ちゃんと事態を分析・診断したほうがいいのだろうか?

グローバリズムという圧力が加わったときに、大阪という都市では「ヤンキー魂」で切り抜けるのが最良であることになっているらしく、今の状況がその結果だと解釈できるとすれば、はたして、これはどこでどういう機構が作動しているのか?

(私自身は、先日のバーンスタインが「不良っぽい/ヤンキー的」とはあまり思わなかったし、その知人の質問も、いわば出会い頭の変化球でこちらの反応を引き出そうとする感じで、当人の意見なのかどうか、よくわからないところはありますが。)

[追記]

いま東京とか大阪がやってるのは、「いかにカネを使わないか」という打ち合わせに延々金をかけてるわけですよ。これは下に金が一切回らないで、そういうことを話し合う人たちにだけ金が回って、何も生み出さないわけですわ。

朝比奈隆が昭和30年頃、「東京には諸井三郎のような書斎の作曲家がいるが、関西の作曲家は劇場にいる」とインタビューで語っていたが、いまなお、昭和後期を生き抜いた高齢者を中心に、関西には、「なんとしても舞台の幕を開ける/舞台には決して穴を開けない」という気風があるように思う。

舞台人のエートスが、書斎や会議室でお金と情報を回す人々を出し抜き、実績をあげてきたわけだが、最近では、この気風が「ヤンキー魂」に変換して継承されようとしているのかもしれない。

橋下徹は真っ先に文楽協会を殴ったわけだが、関西の芸事の理念的・倫理的な規範としての古典芸能の弱体化が、「ヤンキー魂」を全面解禁してしまったようにも思われる。

武智鉄二を顕彰する事業ですら、今は関西ではなく東京の人たちの手で進められている。

グローバルなコンピュータ・ネットワークに接続すればローカルな場所は問題ではなくなることになっているが、むしろ、大阪にまともな紙の出版社(音盤や楽譜を含む)がない(そして有力な大学が大阪市内に残っていない!)、という情報化以前のインフラの不備のツケがジワジワ効いているようにも思われる。情報を囲い込みがちなのは、そういうサイクルに乗らずにやってきて、情報を外に開く利点がわかっていないんだと思う。

いいのだろうか……。

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科学と職人

21世紀に“洋ゲー”でゲームAIが遂げた驚異の進化史。その「敗戦」から日本のゲーム業界が再び立ち上がるには?【AI開発者・三宅陽一郎氏インタビュー】

なるほど今のゲーム開発がそういう風になっているのであれば、「ものづくりニッポン」の代表として(博士号を持たない)官僚がNINTENDOの伝説の開発者を引き連れて国際会議に出席しても、誰も話しかけてくれないかもしれないね。

でもそうだとすると、「ものづくりの復権」を期待してクール・ジャパン関連研究に投資している人たちはダマされていることになる。

ファンドや競争的資金の出資者への研究者の説明は、ちゃんとなされているのだろうか。

日本の大学と学会

日本の学会の多くは大学の当該学科設置後に大学教員が集まって作ったもので、現状では大学が学会に教員の評価をアウトソースするような関係にはないと思う。

学会がそのような格付け機関を目指している気配はあるし、今後はより積極的に、明確な制度としてそうなるべきだ、という主張はあり得るだろうが、だとしたら、学会をよほどしっかりした組織に再編しないといけないよね。むしろ緩い逃げ場がなくなる道だと思うけれど、やるというなら、賛成ではある。学会の法人化とか、そういうことまで話が及んで大事業になりそうですね。

お互いがお互いにもたれ合う構造の一方の在り方を変えようとすると、自ずともう一方の在り方や両者の関係が問い直されることになる。既に一方が動き始めているのであれば、今まで通りであることを願うだけでは済まないんじゃないか。

動かすまいとして踏ん張ると、動かそうとする力がさらに強くかかることがあるだろうから、動かす/動かさないの軸で争うよりも、どう動かすか、というところに話の焦点を合わせた方がいいんじゃないですかね。

出力を発信元に還流させない

最近のイベント広報では、エコーチェンバーなSNSを利用して「お客様の声」をリツイートやいいねでフォローするのが流行っているが、私はあれがどうにも好きになれない。

オーディオ・音響設計で言えば、スピーカーからの出力や会場内の反響をふたたびマイクで拾って、しかるべく処理して再出力する感じがする。そういう手法を音響技術のほうで何と呼ぶのか、ちょっと検索しただけではわからなかったのだが、人工的すぎて、クラシック音楽のような生音のライブには似つかわしくない/潔くない印象を抱いてしまう。私の感性と発想が古すぎるのかもしれないが。

そういう風に発信元にエコーを還流させる回路とは別に、バーンスタインのミサは、本格的に上演すると、あまりに情報量が多すぎて、1回や2回聴いただけでは何がどうなっているのか、いまだに印象が混沌としている。メモと記憶を頼りに、少しずつ解きほぐしている今日この頃である。

で、ひとつだけ、あまりにも多すぎるポイントに埋もれてしまいそうなので書いておくと、

「The mass is ended, go in peace.」というスコア末尾の記載を今回の上演では指揮の井上道義が自らの発話して、これがこの公演で最後に観客が耳にする「声/音」になったわけだが、初日にこれを聴いた時に、「ああ、グラントリノだなあ」と思った。

(指揮者が公演の「最後の一言」をピンマイクで発話する、というのを、以前、別のプロダクションでも目撃した記憶があるのだが、あれは何だったか思い出せない。それも井上道義だったか、佐渡裕か大植英次だったか、あるいはもっと別の誰かだったか……。指揮者はずっと黙って公演をコントロールしているから、最後に一言、というのは、声のトーンとかマイクの調整とか、やってみないとどういうテンションになるか予想できなくて、かなり難しいと思う。)

いま何が巨大化しているのか?

少し前にこういうことを考えて、いまいちだと思って引っ込めたが、

テレビを灯けると強くて巨大な生き物が映し出されて、それに立ち向かうのがヒーローだという世界観で制作された物語が展開されていたが、あれをみた人は、最も大きく最も強い存在に立ち向うことを善しとする価値観を植え付けられるのが普通だったのだろうか。

ギリシャ神話の英雄たちも、ルネサンスの世俗的な勇者たちも、アルプス以北の神話から呼び出されたロマンチックな人物たちも、たいてい、そういうのではないような気がするのだが。

ひょっとすると、この島の映画で西部劇がチャンバラと掛け合わされたときに何かの化学変化が起きたのだろうか。

男の子ワールドの機微はよくわからないのだけれど、こういうのを正のヒロイズムと呼ぶとして、その反転で負けるが勝ちみたいな負のヒロイズムがもう一方にあって、みたいなことになっている、という理解でいいのでしょうか。

それとも、こういうのは、既に正負が衝突して平和裡に対消滅しているのでしょうか。

だったら、もういいんですけど。

あるいは、最近は、巨大なものと向き合うのではなく、(主にエコーチェンバーのような場所で)自分自身を巨大化するのが流行っているのかもしれませんね。視界に入るあたり一面が自分自身であれば、何に向き合うとしても(定義上、自分自身しか見えていないのだから)恐くない、と。

そういう自我にはなりたくないものです。

分断・友敵関係の正体

研究については「博士号以前」の透明人間であることになっているらしいので、私は音楽の話をする。

研究会→音楽会にケチをつける人間と、翻訳→海外音楽家の招聘にケチをつける人間は、等しく下らない。少なくとも(音楽会運営も呼び屋も)自分でやった経験がある人間は、そんなことしない。あるだけありがたいと思うから。

それはそうなのだが、実際に音楽会に行ってみると、「あれは何だったんだろう」「あの音楽家はあれでいいのだろうか」と考え込まざるを得なくなることがある。そして「あそこは、主催者が言うのとは違ってこういうことだったのではなかろうか/同じことを繰り返すより、次があるなら、ここはこういう風にしたほうがいいのではなかろうか」と思えてくる。いわゆるPDCAサイクルはそうやって回っていく。

とりあえず回せ/とりあえず事を起こせ、が、脱デフレ・スパイラルのカンフル剤・緊急指令として有効だったとして、それを継続して回す仕掛けをどう作るのか。

「とりあえず回せ/とりあえず事を起こせ」の自転車操業はなかなか疲れるものだし、そこで使い捨てられた経験がある者は、もう二度とかかわるものか、と、離れていくので、経営者は歩留まり率が損益分岐点を下回らない匙加減を考えることになる。

民間で一生やっていくとしたら、「火を付けた」その先が正念場だろう。

バーンスタインがニューヨーク・フィルやスカラ座やブロードウェイで「事を起こした」あとでミサを書いて、井上道義が京都で東京で大阪で、様々に物議を醸したその先でミサ再演に成功したのは、「理想の経営者」とは似ても似つかない仕方で、何かを私たちに告げている気がします。

(朝比奈隆と大栗裕は誕生日が同じでずっと一緒に関西で仕事をしていたが、朝比奈隆はカラヤンと同い年で、大栗裕はバーンスタインと同年生まれだ。)

Externality

どう考えても、文科省職員は天下りで大学に来るのではなく、再教育の単位履修のために授業料を払って大学に来るべき。

これからは、そういう風に社会人が大学に学びに来るのを「天下り」と呼ぶことにしてはどうか。

経済学に外部性という言葉があるが、大学とその授業は、情報のエコーチェンバーの「外 external」に設定したほうがいいよね。エコーチェンバーに対する外部性。

踊るダンスと見るダンス:宮廷外交、ナショナリズム/異国趣味、モダニズム

19世紀のナショナリズムと20世紀の民族主義の違いが昔からずっとピンと来なかったのだけれど、ダンスのことを整理してようやく腑に落ちた。

踊るダンスと見るダンスの区別が鍵になっていて、19世紀のナショナルな舞踊=民俗舞踊(ドイツのワルツ、ボヘミアのポルカ、ポーランドのマズルカ)は各国の都市の舞踏会で踊られて、舞踏会での流行に追随して劇場のオペラやバレエに取り入れられた「踊るダンス」だけれど、インドの踊り/アラビアの踊り/中国の踊りといった(想像上の)異国の踊り=舞踊の異国趣味は、劇場の客席で「見る」だけで踊られなかった。

舞踊では、自らそれを踊るか踊らないか、という舞踊との身体的・知覚的な「距離」が、対話・共感し得る「国」と、対象として観察される「異文化」を分けていたのだと思う。上品な市民にとっては、他の「国」との舞踊の交換がノブレス・オブリージュだったのだろうし、その一方で、見るだけで踊らない(踊れない)異文化は、身体的・知覚的に「遠い」存在だったんだと思う。

(19世紀の市民が他の国の民俗舞踊を踊るのは、おそらく、宮廷舞踊でサラバンドやアルマンドやポロネーズやジグが踊られた習慣を引き継いでいるのでしょう。宮廷人が「諸国の踊り」を踊ることで他国への敬意=社交・外交を成立させたように、19世紀の市民は、他の国の民俗舞踊を踊ったのだと思う。

17、18世紀の「諸国の踊り」が振付を標準化した踊りやすいものに様式化されていた(「諸国の踊り」にはパ・ド・ガヴォットやパ・ド・ブレのような個々の踊りに固有の振付=「個性」が設定されていない)のに対して、19世紀の民俗舞踊はそれぞれに固有の振付があって、かつての宮廷の「諸国の踊り」とは舞踊としての在り方が変わってはいるけれど(=17、18世紀には乖離していた「国」概念と「個性」概念が19世紀に重なり合って、「諸国の踊り」=キャラクター・ダンスになってはいるけれど)。)

で、20世紀は、北米のジャズや南米のサンバが世界中のダンスホールで踊られるわけですね。異民族・異文化のダンスを踊る、というのは、20世紀ならではの人類学的経験なのかもしれない。異民族・異文化が、踊れてしまうものになって、身体的・知覚的な「距離」がいったん取り払われた。

20世紀に文化の人類学がさかんになるのは、踊るか踊らないか、という直感的な(=身体的・知覚的な)区別で文化との距離を測る時代ではなくなって、「その気になれば一緒に踊れてしまう他者」とつきあうことになったせいかもしれない。

(そしてそういえば、スキャンダルを巻き起こして評判になったリヒャルト・シュトラウスのサロメとエレクトラでは、プリマドンナがユダヤの王女、ギリシャの王女として「自ら踊り」ますね。バレエの国ロシアの「エフゲニー・オネーギン」のヒロイン、タチアナは、村人が踊る傍らで本ばかり読んでオネーギンへの恋心を拗らせていたが。)

中高年大学教員が「負けるが勝ち」話法に傾く理由

「私以外のすべての人は賢い」という命題は嘘つきのパラドクスと違って自己言及を含まないけれど、この命題が真であることを証明するのは、「私は世界で一番賢い」を証明というか実現するより難しい。

他人を誉めておけば指弾されることはないだろう、という戦略は、だから、問題の先送りなのだと思う。証明されねばならない検討課題を事実上無限に近い状態まで増殖させてしまうのだから、この命題はブラックホールだ。

ポパーの主張は「われわれの世界は真理を実証できる世界ではなく、誤りを反駁できる世界である。しかし世界は存在するし、真理も存在する。ただ世界と真理についての確実さは存在しえない」コンラート・ローレンツとの対談の序文。(小谷野敦)

そして既に一定の地位を得た者には、怠けるインセンティヴがある。

デフレは貨幣価値を高める=持てる者をさらに富ませる/貧乏人をますます貧乏にする、なので、持てる者が脱経済成長だのもはや成長はできないだの清貧だのと説くのは利己的トークとして合理的ではある。仕事にあぶれた若いのとか貧乏人は死ねと言っているに等しいが、利己的には合理的ではある。(栗原裕一郎)

ただし、たぶん、怠け者が怠けたままでも、その傍らに勤勉の正のサイクルを構築すれば、全体として経済が上向くことがありうる気がする。(というか、実際いまは徐々にそうなっているよね。)

そしてたまたまエコーチェンバーで発見された「優雅な怠け者」をつるしあげてひとつずつ潰していっても、そのような勤勉のサイクルは回らない。時間の無駄(すなわち「優雅な怠け者」の思うツボ)である。

「優雅な怠け者」は放置して、ワアワアうるさかったら、「うるさい」と言えばいいだけのことである。

(たぶん、反証可能性、という難しい言葉で言われているのは、うるさい奴には面と向かってうるさいといいなさい、絡め手から締め付けるようなことをしても、システムが複雑になって事態が膠着するから、エコーチェンバーにエコーを足す徒労はほどほどにしときなはれ、ということだと思います。

「優雅な怠け者」には、うるさい、と指摘されたときの人間らしい適切な応対・礼儀作法だけ覚えてもらえばそれでよろしい。成り上がった「優雅な怠け者」が困るのは、往年の貴族と違って、マナーが悪いことであり、問題はほぼそれに尽きる。)