「創られた伝統」論vs大阪に新たな伝統を創ろうとした音楽学者

複数の授業で、皆川達夫監修の「中世の音楽」という教育ビデオを批判的に吟味する、ということをやりつつある。

  • (a) パリの教会では今もグレゴリオ聖歌が歌われている

というのがツカミの映像であり、

  • (b) 教会で生まれた「音楽」が教会の外にも広まった

という言い方で最後に騎士歌人(吟遊詩人)を紹介する。

「創られた伝統」(上記(a)に対して)とか、「楽譜中心主義」(上記(b)は、記譜法の普及・応用を「音楽」の伝播と混同している)とか、ということを実習する糸口としてちょうどいいと思うからです。

皆川先生も、現在であればこういうストーリーにしなかったと思うし、取材・撮影された映像は個々にとても興味深いのだけれど、それでも、1980年代初頭にわかりやすくお話をまとめようとすると、こういうレトリックを使ってしまった(ことが映像コンテンツとして残されている)。

心を鬼にして、「創られた伝統」という議論は、こういう場面でこそ使うべきであろうと思う。あれは、若者が何かを一刀両断して溜飲を下げるのではなく、忸怩たる思いで現実を一歩ずつ動かしていくときに使うレトリックだろう。

(わたくしも、音楽史入門の授業で、このビデオを毎年とても便利に活用させていただいていました。そのことへの感謝は感謝として、指摘すべきは指摘する、ということです。)

そして逆に、礒山雅が1990年代からウィーン楽友協会を模した関西の音楽ホールでやろうとしたのは、既に「創られた伝統」という議論(に結集することになるはずの萌芽的な知見)が現れつつあった時期に、その種の知見を、むしろ「伝統を新たに創る」ために利用することだったと思う。

「創られた伝統」のカラクリを知ったうえで、ひとたび「創って」しまえば、古くからあるように思えてしまうのだから大丈夫、と踏んだわけだ。

やはりこれは、90年代以後、各方面で論議を呼んでいる最新型の「反動/バックラッシュ」(左翼の運動戦略を換骨奪胎して取り込む保守ポピュリズム)の好例であったと総括するしかなさそうに思う。当人が死んだあとの整理は、そのように粛々と進めるしかあるまい。

彼に何らかの功績を認めるとしたら、伝統を創ろうとしたこととは別のところに求めたほうがいいだろう。

Happy Birthday, Aaron Copland.


Copland conducts El Salon Mexico, New York Philharmonic

バーンスタインのヤング・ピープルズ・コンサーツにコープランドの回があるのは学生時代にLDで観て知っていたけれど、コープランドは、ストラヴィンスキーらを招いた会場でガーシュウィンがラプソディ・イン・ブルーを披露するという異様なイベントでアメリカがとち狂っていたのと同じ時期に、パリ留学から戻って「シンデレラ・ボーイ」としてボストンとニューヨークでデビューしているんですね。

(クーセヴィツキーがボストンで作曲家たちへの委嘱シリーズをスタートしたときに、若きコープランドは別格の扱いを受けていたように見えます。)

で、ヤング・ピープルズ・コンサーツでコープランド自身がエル・サロ・メヒコを指揮しているけれど、そういう経緯を踏まえて見直すと、なるほど、これはコープランドによる「アメリカのハルサイ」なんだなあ、と思う。

ボストンで育ったバーンスタインがコープランドに憧れたのは、そうした経緯があってこそだろうし、若き日のバーンスタインがニューヨークのコープランドのところへ押しかけたのは、バーンスタインの若き日のアイドルであったあろうブルックリン出身のユダヤ人音楽家2人のうち、ガーシュウィンが既に死んでしまっていて、残りのもう一人に接近した、ということだったんでしょうね。

(若き日のベートーヴェンが、本当に憧れていたのはピアノ・コンチェルトでウィーンを席巻したモーツァルトだっただろうけれど、死んでしまったのでその年長の友人だったハイドンに入門したのを連想させます。)

バーンスタインも、バーンスタインが引き立てた小澤征爾も、若い頃に華やかに世に出ているけれど、どうやら、こういう「若き才能のアメリカ・デビュー」は、1920年代のコープランドの反復だったのではないか。

(コープランドのデビューは、ナディア・ブーランジェが絡んでいるのも興味深いですが。)

コープランドの言葉を引用する形で、アレックス・ロスはアメリカの20世紀音楽を「見えない音楽」と呼んでいるけれど、そのアレックス・ロスの仕事あたりを折り返し点にして、21世紀が本格的に始まっている感のある今では、アメリカの20世紀音楽が、視界の中心に据えて注意深く観察すべき「可視化された存在」になったように思います。

20世紀を語る音楽 (1)

20世紀を語る音楽 (1)

[追記]

そして大澤壽人は、そんなジャズ・エイジの狂騒の残り香のある1930年代のボストンに渡り、そこで「東アジアから来たシンデレラ・ボーイ」になったわけですね。

天才作曲家 大澤壽人

天才作曲家 大澤壽人

ロッシーニとフランス革命

カール・ダールハウスのベートーヴェン論は、要するに、ベートーヴェンは音楽におけるカントである、という立場で書かれた批判的器楽論だと思う。カントが啓蒙を批判的に吟味するように、ベートーヴェンは、18世紀末に至る器楽の伝統を踏まえてそれを批判的に吟味した、という見立て。

でも、そう考えると、ベートーヴェンの営みに18世紀から19世紀への「転換」や「革命」はない、ということになるかもしれない。ベートーヴェンの後期様式は、まるで哲学的な議論のように手順を踏んで到達した境地であって、外部の力による断絶はないことになる。

フランス革命劇の様式でオペラを書いたり、オーケストラにトロンボーンを導入するのは、そのことで「音楽の詩学」に変更がもたらされるような構造転換というより、「新しい趣味」(ドイツの音楽家が「混合趣味」の意味で自らの芸術に「混ぜ合わせる」のが当然であるような)のひとつに過ぎないと見たほうがいいかもしれないし。

(ドイツで「国民オペラ」という理念が実体化されたり、オーケストラが「近代化」するのは、ようやくワーグナーの時代になってからだ。)

一方、ダールハウスは、ドイツの音楽史記述の先例をあまり変更することなく、ロッシーニを「メッテルニヒの王政復古期の空疎」のシンボルだと位置づけたけれど、ロッシーニのオペラは、カストラートが使えなくなって声のセッティングが従来とは変わっているし、独唱パートがコンサート・アリア風に観客を煽り立てるし、「ドイツの器楽」の成果を踏まえたサウンドを試みている。

むしろ、革命期の政治(音楽の外部)が「力」として音楽に介入して、音楽の姿を変えてしまった実例は、ベートーヴェンではなくロッシーニのほうかもしれない。

ベートーヴェンとその時代 (大作曲家とその時代シリーズ)

ベートーヴェンとその時代 (大作曲家とその時代シリーズ)

トロンボーン登場:多様における統一の構造転換

音楽と感情

音楽と感情

チャールズ・ローゼンは、『音楽と感情』のプロローグで、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番第3楽章の冒頭部のピアノ・ソロに3つのキャラクターがある、と言う。

ミケランジェリとベルリン・フィルの映像を見ると、ミケランジェリの完璧な演奏でローゼンの指摘(ファンファーレとドイツ舞曲と多感様式・モーツァルト風の半音階の区別)が机上の空論ではないことがわかって感動的です。

また、ミケランジェリは当初予定されたクライバーとのレコーディングをキャンセルして、指揮者がジュリーニに変わったそうで、その経緯はミケランジェリだったかクライバーだったかの評伝に書かれていたはずですが、「天才クライバー」の「二代目」っぽい弱さとミケランジェリの貴族的な強さが垣間見えます。

ミケランジェリ  ある天才との綱渡り (叢書・20世紀の芸術と文学)

ミケランジェリ ある天才との綱渡り (叢書・20世紀の芸術と文学)

カルロスクライバー(下) ある天才指揮者の伝記

カルロスクライバー(下) ある天才指揮者の伝記

ローゼンは続けて、オーケストラのトゥッティがこのような3つのキャラクターの描き分けを無効(override)にして、トレモロの大河で押し切ってしまうのがこの時代(明言しないがフランス革命の時代ということですね)の特徴だと書くのだけれど、

考えてみれば、古典派のオーケストラにおける管楽器たちの使い方(先のエントリーで個々の楽器の希少性と多彩さと書いたこと)が、ここでのピアノ・ソロのキャラクターの描き分けに対応している。(実際、最初のファンファーレはトランペット風、次のドイツ舞曲は木管楽器風、多感な半音階は弦楽器風に、ピアノで様々な楽器を「模倣」している。)

そしておそらくベートーヴェンは、トロンボーンに、そうした多彩さを無効にして塗り込めるパワーを期待したのではないかと思う。交響曲第5、第6番のトロンボーンはピッコロと組にして使われているので、革命後の劇場(王侯貴族に変わってフランスの兵士たちがひしめくような)のサウンドをシンフォニーに持ち込む試みなのだろうし、ベートーヴェンの頃には、トロンボーンを教会の合唱音楽に使う習慣が定着していたので、交響曲第9番でトロンボーンが合唱を先導するのは、シンフォニーに教会音楽=宗教を持ち込もうとしたのだろう。

(思えば、カントも理性・道徳・芸術の三批判書のあとで宗教と公共性を考えようとしたのだし、当時の知識人にとって、こういう順序で問題を考えるのがアクチュアルだったのでしょう。)

シューベルトのシンフォニーでは、依然としてトロンボーンが「他者」として振る舞っているように思う。

シューベルトのトロンボーンは、未完成のロ短調交響曲で第1楽章の優しい歌や第2楽章の楽園を踏みにじる役割を果たしたり、大ハ長調交響曲の展開部で、「新しい音調」を突如として奏でたりする。そしてこの「大いなる他者」としてのトロンボーンの呼びかけ、というヴィジョンが、大ハ長調交響曲を発見したシューマンの「春の交響曲」のファンファーレになり、この曲をライプチヒで初演したメンデルスゾーンの交響曲「讃美の歌」の冒頭のトロンボーンになる。

トロンボーンがオーケストラのサウンドに統合されるのは、さらに低い音域のチューバが導入されて、金管楽器が弦楽器と同等に高音域から低音域をカヴァーする独立セクションへと再編されたあとのことだと見るのがよさそうで、オーケストラの再編を強く望んだワーグナーがチューバを欲していたのはその先駆けだろうし、チャイコフスキーでは、トロンボーンとチューバを整然と統合したブラス・セクションを聴くことができますね。

オーケストラには「公共性の構造転換」(ハーバーマス)のようなことが起きていて、それは、ウィーン古典派(モーツァルト)でもなくフランス革命(ベートーヴェン)でもなく、ワーグナーの時期、19世紀半ばのことだったと見るのがよさそうに思います。

鍵を握るのは、トロンボーンという、西欧では例外的に古くからほとんど構造を変化させずにいる楽器(しかも声との結びつきが強い楽器)であり、何が変わったかということを探るときには、西欧近代音楽を論じるときに長らくキーワードとされてきた「効率・勤勉・分析と統合」というプロテスタント的な「近代」よりも、むしろ、「希少性」や「多彩さ」といったカトリック地中海的な祝祭の機微を踏まえる必要がある。

「音楽の国ドイツ」の「混合趣味」は、「多様における統一」という修辞学風の構成・形式論とワンセットで展開されてきたように思いますが、問題は、「多様における統一」の実装が、バロックと古典派と19世紀では違う、ということなのだろうと思います。

トロンボーンのないオーケストラ:バロック・古典派合奏音楽と科学革命

大阪フィルは昨秋の定期にシューベルト(スダーン)、ドヴォルザーク(エリシュカ)、モーツァルト(尾高)というように中欧の二管編成の作品を並べて、今年度も尾高忠明のブルックナーのあと、5月はメンデルスゾーン「イタリア」とマーラーの擬古典主義の交響曲第4番で、トロンボーンのいない定期演奏会になった(指揮はルスティオーニ)。

マーラーは色々詰めが甘いと思ったし、あの歌手でよかったのかとも思ったけれど、メンデルスゾーンは薄い響きで管楽器やバスの動きがくっきり浮かび上がり、18世紀の延長の楽器編成で新しいことをやろうとするこの作曲家の特徴がよく出る演奏だったと思う。

19世紀にベーム式フルートや金管のバルブ機構、弦楽器の強化といった楽器の「近代化」がなされたことは、渡辺裕が「音楽機械劇場」という本で主張した枠組で処理できそうだけれど、

替え管で様々な調に対応するナチュラル・ホルンや、リコーダーを駆逐した木製のバロック・フルート(管を分割して様々な調律に対応できた)は、決して「前近代」の素朴な楽器ではなく、17世紀科学革命の知見と連動して、モーダルな教会の伝統から脱却した調的和声・和声的調性という新しいシステムに対応する最新のモダンな楽器だったと言うべきだろうと思う。

そしてバロックの宮廷合奏音楽は、歌手の歌声に似た響きを奏でるだけでなく、コンチェルトで多彩なアンサンブルを実現していたヴァイオリン族をベースに、こうした最新の管楽器たちを揃えて、カストラートの奇跡の声に似た「輝き」(クラリーノ)を誇るトランペットが君臨したのだから、噴水で重力に逆らって水が下から上に吹き上がる噴水や、鉄砲・大砲の火力の源泉である火薬を色とりどりの光のページェントに利用する花火と同じく、最新テクノロジーの展示場と言うべき宮殿にふさわしいアートだったんだと思う。

こうした合奏音楽は、古代ギリシャに倣って「オーケストラ」と呼ばれた劇場のしかるべき場所で宮廷の祝祭をもり立てるのにうってつけだったし、劇場を離れて、コンサート等で演奏するときにも、いつしか「オーケストラ」と呼ばれるようになった。

オーケストラという言葉の由来は古代ギリシャに遡るけれど、オーケストラという合奏形態の起源は、ギリシャ劇の復興を目指したバロック宮廷文化にある。官僚制国家が自由・平等・博愛に先立ってアンシャン・レジームに由来するように、クラシック音楽の骨格は、渡辺裕が注目したような19世紀の市民的教養に先だって17、18世紀の宮廷で形作られたと言うべきだと思う。

そして17、18世紀の宮廷文化は、のちに市民たちが「下から目線」で揶揄するような「ゴチャ混ぜ」の混乱ではない。(「科学革命」時代の貴族たちが、そこまでアホなはずはない。)効率や発展という基準を立ててしまう近代市民の発想では、バロック/ロココの希少性の輝きや組み合わせの多彩が見えなくなる、ということだと思う。

おそらく「オーケストラ」という言葉は、規模の大小の問題ではなく、そうした希少性や多彩さ(劇場・祝祭にふさわしいような)を含意して用いられたし、今もそのニュアンスは残っている。だから吹奏楽はオーケストラと呼ばれない(ウィンド・オーケストラという言葉が不遜な下克上に見える)のだと思う。

(吹奏楽は、サクソルンやサクソフォーンがそうであるように、効率的(渡辺裕の言う意味での「近代的」)に設計されていて、外部への回路がふさがっている。だから吹奏楽とつきあっていると、ビデオ・ゲームで play 遊びを代表させようとするときの歴史の欠落に似た閉塞感がある。)

19世紀のロマンチストたちは、確かに市民的な発想で新しい価値を打ちだそうとしたのだろうけれど、でも、そういう宮廷文化の遺産をリセットして捨てたわけではなく、むしろ、巧妙機敏に利用した(宮廷文化に寄生してその遺産をリサイクルした)ように見える。

「イタリア」交響曲がA-durなのは、たぶん、ベートーヴェンの7番を踏まえていて、管長の短いA管のホルンがベートーヴェンの場合と同じように雄叫びをあげる。

一方、シューマンの「春の交響曲」はB-durで、ベートーヴェンの4番と同じ調ですね。ベートーヴェンの場合は、世界のはじまりの混沌を思わせる序奏のロングトーンを、管長の長いB (Basso) 管のホルンが不気味に響かせるし、シューマンの序奏では、同じB (Basso)のホルンが、トランペットのオクターブ下でファンファーレを支えている。

こういうポイントを拾っていかないと、オーケストラの話は面白くならないよね。

(シューマンのシンフォニーを「影響の不安」というお話に回収するような過剰に重装備のペダンティズムとか、こういう話についていけない老人に「一般人にはそういうのは難しいよ」(←往々にして、この物言いは自分が話についていけないだけだったりする(笑))と嫌味を言われたくらいのことで怯んでしまう屈折した心情とか、そういうことをやっていたら先細りでしょう。)

1990年代の音楽学者の意識と存在

岡田暁生や伊東信宏、片山杜秀らが台頭したのは、色々な賞を得たり、吉田秀和が彼らの存在を特別なものとして意識して動きはじめた2000年代のことだとひとまず言えるとしたら、それに先だつ1990年代には、一回り上の世代の「音楽学者」が中年過ぎてからにわかに積極的に音楽批評に乗り出す、という現象があった。

(鈴木淳史がそうした人々への揶揄を新書で書いたことがあった。)

礒山雅は、そうした「音楽学者の批評への新規参入」の代表格だと思いますが、彼らとその周辺は、「我々こそが音楽批評不毛のこの島に真の批評を今こそ打ち立てるのだ」と自負していたらしい。そのような情報を最近得て、びっくりしました。呆れた誇大妄想が彼らを駆動していたらしい……。

(彼らが本気でそう思っていたのだとすれば、そのような肩に力の入った自負は、なるほど鈴木淳史の恰好のツッコミどころだったのだろうと思います。)

でも、聴衆の立場からの言葉を立てなければ公開コンサートという制度が完成しないのは今に始まったことではなく、音楽学者が批評に新規参入できたのは、この島の聴衆のメインストリームが知識・お勉強寄りにシフトしつつある時代だったことの結果に過ぎないだろうと思う。

しかも、突然そうなったのではなく、礒山雅は渡辺護の後継者みたいなところがありそうだし、関根敏子(鈴木淳史が自著で彼女の批評文を具体的に論評している)が日本オペラの大家みたいになったのは増井敬二の跡継ぎとしてなのだろうと思うし、関西にもそうした「○○の跡継ぎ」という系譜を見いだすことができると思う。

当人の意識(「真の音楽批評はこれから始まる」)と存在(「この人は○○さんの後釜だよね」)が乖離したところに、この世代の特徴がある。

この世代はそろそろ引退の頃合いであり、礒山雅は死んでしまいましたが、生きている間に、ちゃんとそうした「系譜」を明らかにしておくべきでしたね。

ともあれ、意識と存在の乖離した人たちが退場する頃合いになってきたということは、状況が苗字ねじ曲がってしまう原因が取り除かれて風通しがよくなるかもしれない、ということですから、めでたいことだと思っております。

[……例えばこういう切り口で「世代論」を語る事だってできるはずだから、新世代が力を得て旧世代を粉砕する、みたいなカビの生えた物語を反復再生産するのは、もう打ち止めにしていいだろうと私は思う。その種の世代交代の物語はダサくて退屈だし、世の中にはその枠組からこぼれおちる事実が多すぎるという意味で、コストパフォーマンスが悪い/無駄な負荷があちこちにかかりすぎると思います。]

師と弟子、先輩と後輩の間の主従関係/下克上は楽しいか?

大学院に進学したころに、もう「先生」の枠組を追いかけるのは古いな、と思って、それでもこれと見定めた「先輩」の背中を追いかけているところがあったように思うけれど、それから四半世紀過ぎて、オペラやピアノ音楽や西欧芸術音楽の理論と歴史を今の学生さんたちに説明するときには、自分より若い人たちの研究成果を取り入れながら話をどんどん組み替えている。

学問とは、そういうものだと思う。

老人は「今時の若い者は」と文句を言うものである、とか、昔、年長者からこういうことを言われたので、臥薪嘗胆、こうして彼らに復讐を果たしたぞ、とか、

縦社会というものがこれこのように今も存在するではないか、と告発したり、私はそれを(部分的に)こういう風に壊したぞ、とかいう話は、基本的に私はまったく興味がもてない。

知・学問は、そういうのとは無関係なやり方で構成される理念だし、知・学問が「縦社会撲滅運動」(そういうのがあるとして)に役立つかどうか、というのも、正直、どうでもいい。

好ましくないものを撲滅する運動は、それはそれとしていいことなのだろうから、それにふさわしい場でおやりになればいいとは思いますけれど。

その「大学時代の年配の先生」とは誰なのか? - 体験談の調理法について

10年程前、最初日本で(セイチェントではない)レクチャーコンサートをしたとき、大学時代の年配の先生に「あなた、ああいう難しいお話しは一般の人には向きませんよ」と言われた。が、コンサートのアンケートには「一般の人」から「講義が面白かった。もっと突っ込んだ話をして欲しかった」と書かれた

自分の体験をこのような定型に収めて語ることは、受け手のリテラシーを信頼する美味い調理法とみなすことができるのだろうか。

その年配の先生とは誰なのか、実名を挙げないと同年配の他の先生が、その不見識な先生と混同されて迷惑なのではなかろうか。その「年配の先生」と同年齢かそれ以上の物故者であるような日本の大学教授のなかに、あなたのレクチャーを歓迎するであろう人は当然複数いるはず。その程度には、日本の大学にも、ものをまともに考える個人がいる(いた)はずだと思うのですけれど……。

攻撃能力の高い話法であることは認めるが、敵味方の線引きがあまりにも凡庸ではないだろうか。

友敵関係の戦略について、受け手のリテラシーを信頼せずに、どうやって闘いに勝てるというのであろうか。

「個」として立つ覚悟をしてこその闘いなのだろうから、「敵」を正確に個体識別したほうがいい。そうでなければ、あなたの発言もまた、「個」として切り出すことのできない「群れ」の「匿名発言」のひとつへと沈んでしまうのではないでしょうか。(「笑点」風の大切り(←これもまたSNSのひとつの特徴的なありかたになりつつあるらしい)で「いいね」という座布団をゲットして終わり、みたいな。)そういうことでいいのでしょうか。

リストvsタールベルク:身体と音響の分離

前のエントリーでも書いたけれど、「リストvsタールベルク」として語り継がれてきたパリのサロンの伝説について、上田泰史さんの綿密な調査にもとづく論考は画期的だと思う。

「タールベルクのアルペジオ」は、中音域に置かれたメロディーを両手で交互に取るわけだから、ピアノが生み出す音響(アルペジオの雲からくっきり浮かび上がるメロディー)は、もはや、「ピアノを弾く身体」(岡田暁生)に対応しない。タールベルクがピアノを弾く姿はスタティックだったと伝えられているそうだが、それは、「趣味」の問題ではなく、身体から分離した音響を奏者自身が観察・コントロールするために必須の構えだったのではないかと思う。

上田さんは、当然ながら慎重に、これがタールベルク単体の「発明」ではないことを断っているけれど、リストとフェティスが論争になったのは、ピアノ演奏に潜在的な可能性としてあり得た道としての「身体と音響の分離」を、周囲からその是非が問われるほどの成果にまとめたのは他ならぬタールベルクだった、ということなのだろうと思う。

翻って、リストは、もちろんそうした可能性を知ってはいたのだろうけれど、タールベルクの登場までは、積極的に探究していなかったのではないか。カリカチュアに描かれたリストの身体を大きく動かすピアノ演奏は、両手が音と一緒に鍵盤上を上下(左右)に駆け回る奏法だったことをうかがわせる。リストは、パリのヴィルトゥオーソ時代の作品をワイマール以後に大幅に書き直しているけれど、書き直し前=タールベルク以前と以後で何かが変わったと解釈できるところがありはしないか。誰かがチェックしてみるといいのではないかと思います。

もし、予想が当たっていれば、ピアノ演奏における「観察者の系譜」(ジョナサン・クレーリー)を語ることができるようになるんじゃないかと思う。

リストは、パガニーニ練習曲の最終版やハンガリー狂詩曲のように「ピアノを弾く身体」が露呈して上品なサロン音楽の範疇を超え出てしまうようなピアノ音楽をワイマール移住以後に書いたわけだが、これは、タールベルクが先鞭をつけたのではないかと思われる「身体と音響の分離」の前に戻る反動ではなく、「身体と音響の分離」というフィルターを通して見いだされたサロン的なものへの対案、近代に特徴的な「invented tradition」と位置づけることができるのではないでしょうか。

(invented traditionというホブズボウムの概念は19世紀後半のヨーロッパから見いだされたものなのだから、音楽に適用するとしたら、昭和期の日本の大衆歌謡(演歌)等に「応用」するより前に、まず、リストの変貌というような19世紀後半の現象で成り立つかどうかを検証すべきでしょう。「近代日本文学」(正確には19世紀後半の日本の小説)に日本の左翼評論家がinvented traditionを見いだそうとするのは、同時代なのでまあいいとして、そういう試みの成功の尻馬に乗り、invented traditionという見方が、ここにも成り立つ、あそこに成り立つ、と時代や地域や社会背景をすっとばしてこの概念をあちこちに「コピペ」して貼り付けるのは、もはや学問ではないだろう。そういう風なハヤリ言葉の濫用が、「歴史」を消してしまうのだと思う。)

一方、岡田暁生が「ピアノを弾く身体」という論を立てたのは、むしろうああいうアングルこそが、ピアノ演奏における「観察者の系譜」を消してしまおうとする復古主義的な反動だと思う。(岡田暁生がクラシック音楽からジャズに転進したのは、身体と音響の分離を断固拒否するための一種の「亡命」に見える。)

もちろん、身体性を消去してピアノ演奏を考えるのは問題だろうし、岡田暁生がピアノ演奏の身体性という論点を印象的に打ちだしたのは見事な業績だと思うけれど、しかし彼の論とは逆に、近代の身体は、楽器演奏においてすら、新しいメディア体験による身体と感覚の分離(その先に「サウンド」概念が見えてくるような)のほうへ向かっている(いた)のではないか。そして現代のピアニストたちは、そのことを身をもって生きているから、岡田流のヴィルトゥオーソ論/ノスタルジックな身体論にのってこないのではないだろうか。

パリのサロンと音楽家たち 19世紀の社交界への誘い (5023)

パリのサロンと音楽家たち 19世紀の社交界への誘い (5023)