「MUSIC MAGAZIN」の書評(増田聡)を読んで、「モダニズムの総括」という言い方に納得。
色々な分野でそういうことがなされているのだと思いますが、音楽でこれをやろうとすると、モダニズム批判と「親殺し」風のクラシック音楽批判が重ね合わされてしまって、妙にポピュラー音楽に対して点数が甘くなってしまうことが多かったような気がしています。
一方で、ポピュラー音楽の、西欧的な思考法の私生児的な一面を思い知らせておいて(「シリンガー/バークレイ理論」など)、他方で、「音響vs音韻」、「アクセントvsグルーヴ」等々、汎用性のある自作カテゴリーを縦横に使ったのが、そうならなかった秘訣ということでしょうか。
クラシック音楽を考える時にも、使わせてもらいたいと思うアイデアがたくさんありました。
ただ、ポピュラー音楽の人は、意地でも屁理屈でもヤケクソでも(笑)、即座に(数年後では遅い)、この本を批判できたほうが話が面白くなるのでは、とも思いました(野次馬の意見です)。
この本を読むと、私のような者でも、ポピュラー音楽に接近できそうな気がしてしまいます。これは、果たして良いことなのかどうなのか。
クラシック音楽に先がない(主に研究・保護対象として存続する無形文化財的伝統芸能になっているorなりつつある)のは、誰の目にも明らかですが、20世紀型ポピュラー音楽にも、そういう時期が迫っている、ポピュラー音楽が、『憂鬱……』の枠組みで「読める」(気がしてしまう)のは、20世紀のポピュラー音楽の「終わりの始まり」?
ということで良いのでしょうか。
菊地成孔、大谷能生「憂鬱と官能を教えた学校」ISBN:4309267807