まず、本書成立の周縁事情について。
本書のあとがきに、大阪大学文学研究科に提出された学位論文にもとづいていると記されています。私の母校でもある学校です。
おそらく他校でも同様のことが起きているかと思われますが、私たちが在籍した研究室では、90年代の制度改革にともなって、大学院生に、積極的に学位請求を推奨する指導が行われていました。そして、もともと大学院在籍者の多い研究室であったこともあり、一年に数件ずつのペースで学位請求論文が提出され、そのほとんどが審査に合格しています。
けれども、これも多くの他の大学で起きていることだと思いますが、学位取得者の中で、常勤の研究職を得た者は、ほとんどいません。
また、さらに細かく見てゆくと、常勤職を得た者は、すべて、80年代、前任教官時代から大学院に在籍する、いわば「古株」です。2年で修士論文を書き、その後、3年で博士論文を書くというスケジュールが標準化されてからの大学院入学者の中に、常勤職を得た者は、ひとりもいません。(私は、そもそも博士論文を提出していませんから、また話が違います。)
私は、本書が研究論文として見た場合に、いくつか、疑問点があるように感じています。「作者」概念については当欄で詳述しました。また、mixiの私の日記では、別の箇所に関して、増田さんご本人とディスカッションさせていただきました。
- 大学院博士課程の制度変更
- 修了生の就職難
- 論文内容の(すくなくとも私にはそれが存在すると思われる)「隙」
三者の間に、何らかの相関関係があるのかどうか。判断は、もちろん慎重であるべきでしょう。
そういえば、本書は、著作権について、法解釈と現実の運用の齟齬がひとつの焦点になっています。
「日本の著作権議論の現状」は、「法的な用語法をめぐって解釈論争が繰り返される」と形容され、著作権解釈の通説は、いまだに「ロマン主義的理解」にとどまっている、とされます。
あえて、無責任に(著者の意図を超えた拡大解釈をして)話をスキャンダラスにするのを許していただけるならば、
同様に、
「日本の<音楽論>の現状」は、「<ロマン主義的音楽観>」をめぐる「解釈論争が繰り返」されており、そのことが、現実に即した音楽研究者、増田聡の活動を阻害しているのかもしれません。
そして、もしそうであれば、小異を捨てて、我たちは、増田聡さんの活動を全面的に応援するべきなのかもしれない。
ちょうど、モーリス・ラヴェルの5度におよぶローマ大賞落選がパリ音楽院学長交代を招くスキャンダルに発展したり、中沢新一の東大教養部助手不採用が、アカデミズムとは何かという論争を巻き起こしたように、
私たちは、ポピュラー音楽研究の受難を嘆き、制度的研究コミュニティの狭量さを告発する、「風」を起こすべきなのかもしれません。
けれども、それとは別に、増田氏個人の努力と能力を超えたところで、現行制度にも問題点があるかもしれない。
本書のあとがきで、著者は
本書の至らなさや不備については、全て私個人の怠慢と能力不足がその責を負うことは言を待たない。
と書いています。
しかしながら、ひょっとすると、大学院教育システムには、構造的な欠陥があり、それが、至らなさや不備として現れている可能性だってありうるのではないでしょうか。
そして、それは著者の不名誉ではないし、著者だけが責任を負うべき事柄ではない。
既に現行制度がスタートして十年近くがすぎています。
現行制度で育った世代による力作が世に出たこのタイミングで、制度の功罪、何らかの改良の可能性を検討してみることも、無意味ではないのではないか。私はそのように思っています。