新国立劇場 清水脩「修禅寺物語」

若干の残席があることを昨日になって知り、行ってきました。

外山雄三・東京交響楽団は、ちょっと重厚すぎるように思いましたが、音楽がヴォーカルスコアから想像していた以上にカラフルなのがわかりました。

藤十郎さんの演出は、なんと申しますか、人物が、それぞれの定位置で姿勢を決めると、あとはテコでも動かない、というもの。

上昇志向の強いヒロイン、かつらが、将軍頼家から若狭の局に取り立てられて、オーケストラがワーグナーばりのファンファーレを吹いても、いわゆるオペラ風に両手を広げて喜びを身振りで表現したりなどしない、というように、バタ臭い所作の排除が徹底しておりました。初演のときに武智鉄二がレールを敷いた、いわゆる「歌舞伎調」オペラ演出というのは、こういうことなのかな、と思いました。(藤十郎さんは、オペラ「修禅寺物語」初演の稽古には来ていなかったようですが、その前の武智演出の「お蝶夫人」では、お蝶夫人とスズキの演技指導をしたようです。)

ただし、観ているとこれは、さすがに、間が保たないですね。

武智鉄二自身は、オペラの場合、歌舞伎とは「間」が違うので、そこをどのように処理するか、色々工夫したと言っています。だから、武智演出では、もう少し人が動いたのではないかと思うのですが……。

気になったことは2つ。

ひとつは、清水脩の音楽が心理描写中心で、人物の所作や移動のきっかけになるような要素をほとんど含んでいないこと。あの音楽だと、中途半端に人間が動くと、おかしなことになりそうです。対話部分ものんびりと処理されていますし、この音楽は、所作なしの演奏会形式で、オラトリオとしたやってもいいのでは、と思ってしまいました。(武智鉄二は、この清水作品を「詩劇」と形容しています。)

[追記2009/6/30]さらに言うと、岡本綺堂/左團次の新歌舞伎に、息をぐっと詰めてこらえにこらえた感情がある時、臨界点に達して表にでる、というタイプのものなのだとすると(人物がぐっとこらえて動かないのも、そのせいでしょう)、ライトモティーフの技法で心理を逐一説明してしまうのは諸刃の剣。あまり音楽が雄弁・溌剌と演奏されすぎると、緊張の持続が削がれてしまうかもしれませんね。[追記おわり]

もうひとつは、このように「止め絵」の続く舞台だと、数少ない動きが重要だと思うのに、歌手の皆さんが、姿勢を変えたり、位置を移ったりするのを、まるで、歌の間の「息継ぎ」のように、サササっと、あっけなく処理していたこと。動くところは、しっかり間を取って、堂々と動く。そのほうがこの舞台に合うように思いました。

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プログラムの曲目解説は、片山杜秀さん。清水脩が浄土真宗のお寺の生まれであることを、彼の旋律の音程が狭いことと結びつけた着眼点はさすが。(どこかの誰かが、パリ音楽院のピアノ・レッスンのことをフランス人の博士論文で読んで済ませる、というのと違って)真宗の声明や和讃がどういうものか、実際に聴いているからこその解説と思いました。

ちなみに、清水脩の実家は、真宗大谷派(東本願寺派)であるようです。松下眞一などが東本願寺(大谷楽苑)から委嘱を受けたのも、ひょっとすると、清水脩が仲立ちをしたのでしょうか。

天台声明を取り入れるなどしているアカデミックな本願寺派(西本願寺派)ではなく、身体を揺する坂東節など、古いスタイルの儀礼が残っていると思われる大谷派だということも、清水脩の音楽に、もしかすると何かが反映しているかもしれませんね。