エビデンス

言い方をかえると「エビデンス」がなくても人は快楽を感じる(ことがある)。快楽について、それを与えている(と思われる)対象内に要因を求めて分析したり…というのは根本的にナンセンスであるようにおもう次第なのよ

(1) 言い方をかえると「エビデンス」がなくても人は快楽を感じる(ことがある)。

→ これは、すべての快楽に「エビデンス」があるとは限らない、という部分否定である、と解釈していいですよね?

(2) 快楽について、それを与えている(と思われる)対象内に要因を求めて分析したり…というのは根本的にナンセンスであるようにおもう次第なのよ

→ 一方、2つ目の文の「対象内に要因を求める分析はナンセンスである」は、「あらゆる快楽において「エビデンス」は存在しない」という全否定を前提すると思われます。

いつの間に、部分否定が全否定にすり替わったのでしょうか?

これはつまり、「存在意義があろうがなかろうが、オレは対象の分析が嫌いだし、やりたくない、そんな話をオレの前でやらないでくれ」という謝絶の身振りなのだろうと思います。

(そういえば、あなたの恩師Y先生も、しばしば、そのような「謝絶の身振り」で学生を黙らせる人でしたね。)

おそらく、あなたが嫌いであろうが好きであろうが、そんなあなたの都合とは関係なく、それが必要な場面では「対象の分析」が行われつづけることでしょう。

また、あなたの分析への「不快感」にも、何らかの耳を傾けるべき「要因」があるかもしれず、わたしは、機会があれば、あなたの「不快感」を分析したいとすら思います。

今は、「分析は無意味だ」と頭ごなしの否定を性急に叫ぶ一方的な「面会謝絶」を尊重しますが、個人的な感想を僭越ながら申し述べさせ頂くことをお許しいただけるならば、ご自身の「快楽」や「不快感」を論理の破れという形でしか表明できない言語状況は、なんとストレスフルなことであろう、と思わずにはいられません。

「分析嫌い」を内に抱えたままで学者になるのは、本当に大変だったことでしょう。対象の分析を満足にこなせないことは、手先の不器用な歯科医のようなもので、場合によっては、学者として無能である、というレッテルを貼られてしまいかねませんから……。今までよく頑張りました。ご苦労様。

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なお、この文章を第三者の立場でお読みになった方の誤解を避けるために書き添えますが、

私は、物質的証拠もしくは五感で認知可能な情報のみで世界の森羅万象が説明可能であるとは考えませんし、物質的証拠もしくは五感で認知可能な情報の分析が総体として仮説であり、「もし対象の側になんらかの要因を求めるとすればここであろう」という語法でなされるしかないことをわきまえているつもりです。仮説を積み重ねる宙づり状態での言語運用に耐性のない人は、心の健康を害するおそれがあるので(笑)、「対象にエビデンスを求める分析」には近づかないほうがいいのかもしれない、と思っております。

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気にくわない「分析家」をみつけたら、飛びかかって首を絞めちゃってくださいな。人生にはときにはそういうスペクタクルが必要かもしれないので。