今週のマルクス主義ではないリベラル

雑感もろもろを手短に。

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記事のタイトル「マルクス主義ではないリベラル」は、原武史『滝山コミューン』はちょっと変じゃないか、と文句を書こうとすると、とたんに「サヨ」認定されそうな感じがあって、その粗雑な分類はなんなんだ、と考えたことに由来する。

「右寄りでないもの」の領域が狭すぎないか、と。それだけ。そのゾーンに、ジイサン、オッサンがたくさんいるのは知っているけれど……。大栗裕を改めてちゃんとやろう、と今考えつつあるのは、そうした思いと無縁ではない気がする。

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話は飛ぶ。

「コラム」を1回丸ごと使って、これからの公演の宣伝に使うのは下品だ。

一方の書き手は、さすがに、本来「コラム」とはそういうものではなく、書き手のキャラが見えてこないといけないことを辛うじてわかってそれなりに苦労しているようだが、もう一方の、そうした「コラムの全面宣伝化」を最初にやったほうの書き手は、そのあたり、自分が何をやらかしたか、ということもわかっていないようだ。呆れる。

もはや、ステ(ルス)ですらない、ただの「マ」だな、こりゃ。

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光の演出。

井上道義・大阪フィル「青ひげ公の城」のカーテンコールに出てきた人は誰だったんだろうと思っていたら、照明家さんだったらしいことを大フィルのブログで知った。

美しい照明だったことは確かで、フェスティバルホールの大きな舞台は、こういう風に視覚効果というか、舞台の「見え方」を工夫したり、刻々と変化させるのに向いていると思う。

ただ、「青ひげ」という密室のドラマに、光を主体とする演出が合っていたかどうか、となると、微妙かもしれないとも思う。びくともしない石に囲まれた場所の感じと、ライティングだけで楽々と効果が変幻自在でありうるという発想は、むしろ、そぐわない気がする。

(そっちを過剰に追い求めると、たぶん舞台がどんどん「軽く」なる。往年のテレビの歌謡ショウとか、典型的にそうですよね。)

今回の公演は、照明を変えた程度ではどうにもならないところに2人が閉じこめられている、という趣旨ではなかった、ということかと思う。

仕方がない面が色々あるのは全部認めたうえで、それから、たぶん日本の照明家のセンスと技術は、今相当すごいだろうことを認めたうえで、個人的には、照明頼みの演出はあまり好きではないのです。(同じ井上演出でも、前に京都でやった「死の都」や「イリス」のときは、それほど違和感がなかったので、作品によるかもしれない。作品のとらえかたがかなり自由に「井上流」だったと思う。それが何なのか、私にはまだよくわからない。)

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言語を生みだす本能〈上〉 (NHKブックス)

言語を生みだす本能〈上〉 (NHKブックス)

言語を生みだす本能〈下〉 (NHKブックス)

言語を生みだす本能〈下〉 (NHKブックス)

「チョムスキーは凄い」説、というのがあって、何をそんなに興奮しているのかと思ったら、語の並べ方の規則の集積(を丸暗記する)だけでは言葉(さしあたり、話し言葉)を習得・運用することはできないのだから、その、並べ方の規則を制御していると想定される一種のメタな構造を探ろう、という話で、

それはいいのだけれど、そこを一足飛びに本能とか、脳内には、言語のメタ構造を処理する領野があるのだ、という話になると、そんなに単純な説明では済まないだろうという気がせざるを得ない。

音楽だって、音の並べ方の規則の集積だけで音楽を修得・運用することはできなくて、一種のメタな構造があるのだけれどもそこをうまくつかめない人は、「才能がない」とか「もっと勉強せねば」とか、自分を責めてしまって、対位法オタクになったりするわけだけれど……、

そこからいきなり「音楽脳」がある、という話にはならないし、そんな風に、なんでもかんでも、それ専門の処理機構を脳に想定していたら、出来の悪いスパゲティコードのコンピュータプログラムみたいになると思う。

とりあえず、人はどうやって「前」と「後」を区別している(できている)のか、というあたりまで戻らないと、脳の話にならないんじゃないだろうか。

で、音楽に関する「前」と「後」をめぐる考察(=時間の基底のような話)では、たしかヘーゲルが面白い(とダールハウスが書いていたはず)と思ったら、同じような視点でヘーゲルに興味をもっている人が他にもいることがわかったので、あとは、そちらに託す。

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そして例のドイツ音楽のシリーズ本だが、

繰り返しになるけれど、やっぱり、「その時代に誰が何を考え、発言したか」という層と、「その時代に誰がどんな音を鳴らしたか」という層は、直接簡単にはつながらないし、時代ごとにつながり方が違うし、両者をつなげる社会の構造や階層等のあり方も違うのに、という違和感を拭えない。

著者としては、そこのところをこそ「音楽学」でやってくれ、わしゃ知らん、ということかと思う。

ジェントルマンと科学 (世界史リブレット)

ジェントルマンと科学 (世界史リブレット)

啓蒙の世紀と文明観 (世界史リブレット)

啓蒙の世紀と文明観 (世界史リブレット)

17世紀の宮廷人や自由都市の有力者が「フランスの様式/イタリアの様式/ドイツの様式」と言うときと、18世紀の、「人種」とか「民族」ということが非ヨーロッパ世界との関わりでそろそろ具体的に考えられはじめた段階での「民衆の歌」というのと、19世紀にネイション・ステートが具体的な政治日程になっていった段階での「国民音楽」は、別の話で、通史として一直線にはつながらないだろう、と思うし、そこのところを「音楽史という物語」であったり、何らかの仮説的な枠組みを設定した「研究」であったり、としてやるのが音楽学の仕事なのは間違いないのだけれど、

そこのところが、たぶん、今の日本ではすごく弱体化してるんだと思う。ちゃんとした人材がここへ回ってきていない貧血症の印象がある。

だから小鍛冶邦隆が、もうあとはソルフェージュ教育の再配置として作曲家がやる、バカのことはもう知らん、と宣言したりすることになるわけか。

↑連載の3回目だけページ構造とかが違っていて、めちゃくちゃ探しにくい。道具に人が使われている感じがする。