ちゃんとした演奏を聴いたら、ちゃんとした批評が書けてしまうのがちょっと悔しい(←何を言ってる)。
世間には「私情を挟む」という言い方がありますが、それがどう卑しいかというと、音楽に対して失礼なわけですよね。嫌な奴が関わっていようがどうであろうが、音楽が面白ければ面白かったと書くしかない。
(あいつは嫌な奴だ、とか、そういう話は、その分、ここに書く。別にそれは「特定秘密」ではないはずなので……。)
ところで、これと似た言い方で、「雑念を払う」というのがありますが、私にはこの言葉がよく理解できません。
それを知ることで音楽が面白くなるんだったら、それは「雑念」ではないし、それを払ってしまうことでしか、いいようには聞こえない、という音楽があるとしたら、それは、音楽がダメなのであって、その音楽をダメに思わせてしまうような「念」を含めて、そういうものだと思うしかない。
そういうわけで、「雑念を払う」という態度は、そのように特定の「念」を排除しようとする頑なな態度自体が、よこしまな雑念なのではないか、という気がします。
誰が何を「雑念」として追い払おうとするものなのか、その特殊な態度を観察するのが興味深いことである場合は、もちろんあると思いますし、「これは選ばれた者だけに聴かせたい特別な音楽だ」という風に排他的な態度というのも、同じくらい興味深く面白そうだと私は思う。
そんな風にこわばった音楽聴取の現場が実在するのだとしたら、そんな面白い場所は、多少高くついたり、何かの手順が要るとしても、死ぬまでに一度は見物しておきたいじゃないですか。
……ということで。
やっぱり見ておいたほうがいいのかなあ、と入手。
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堀内敬子が全面的に活躍しており、それはビミューだと思わざるを得ませんが、46歳でこのお芝居を作って、この人は何かの区切りになったのかなあ、という感じはする。
「ボエーム」ですよね。最初の場と最後の場の人の登場の順番が揃えてあるところも「ボエーム」と一緒。同じことを繰り返すことによって、変わってしまったもの/喪失感を際立たせるのは、時間芸術によくあるパターンではありますが。
ともあれ、見える人と見えない人がいるのに加えて、そういう差異が存在すること自体に気づいていない奴がいる、というお話で、このあたりから既に、「見える/見えない」問題がはじまっているんですね。
その役者を見る、じっと見る、ただひたすら見る、そうすると、こういう芝居ができるぞ、ということが見えてくる。その眼力で当て書き台本作家をやってきたし、今もやっているんだ、ということですね。