師走を彩る人々

(短い消息記事を見開きでずらっと並べる週刊誌でおなじみのコーナーを最初にやったのは、斉藤十一の週刊新潮だと言われているらしい。昭和の風景と言えようか。)

【全部わたしのもの!】

この人は、私が定期的におうちにお呼びして、素敵なお話をしていただいている方だから「わたしのもの」。

この媒体は、いつもわたしのおうちのことを紹介してくれているから「わたしのもの」。

このテレビ番組は、私のおうちで撮影したから「わたしのもの」。

え、わたしのおうちはどこかって、そりゃこの会社に決まってるじゃない。だって、この会社、私にお給料を払ってくれてるのよ。だから、もちろん、この会社は「わたしのもの」よ。何あたりまえのこと訊いてるのよ。

【ひとり楽派】

昭和のはじめにメンバー3、4名と思われる「札幌楽派」があったことが知られているが(伊福部、早坂、三浦)、昭和の終わりから平成にかけて、金沢にはメンバー2名の「楽派」が実在した(している)ことがこのほどわかった。

おそらく、同じような意味において、昭和期の大阪府茨木市には、メンバー1名(=松下眞一)の「茨木楽派」があったと言えそうだ。

思いを同じくする複数の人間が集まる「同人音楽」など生ぬるい。孤立は恐るるに足らずの「孤人音楽」である。

通常、この種の「楽派」には物書きが随伴するが、松下眞一の「茨木楽派」は、彼が音楽家と物書きを兼ねた。究極の自家発電である。

この列島に、はたしてどれほどの数の「ひとり楽派/孤人音楽」が棲息するか、全貌を把握できる見通しは立っていない。