シュトックハウゼンのピアノ曲の1959年のものすごい演奏の録音を聴いたことがある。きっと、こういうのがいっぱいあったんだよ、昔は。
- 作者: マーカス・デュ・ソートイ,冨永星
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2010/02/26
- メディア: 単行本
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ガロアの生涯(やっとそこまで読めた)は、何度聞いても、よく、こんなすっちゃかめっちゃかな生き方をした若造の論文が埋もれずに残ったものだと、本当に驚かされますが(ロマンチストというかパンクというか……)、
ある作品が次第に評価を高めていくときには、多くの場合、作り手とその周辺で、正確さとは違う種類の説得力をもつパフォーマンスがあったんだろうと思う。
古楽のパイオニアたちの周囲とか、現代音楽の秘教的でアングラ的な集団の周辺で。
そしてしかし、それより一回り大きい、ちょっと通俗的な「業界」の界隈では、そういうのをからかい半分でおちょくりつつ楽しむ空気があったのではないかと思う。
古楽関係の「偽作」が横行したのは、まさに、そういうことだろうし、
http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20140205/p1
1960年代に世界各地で現代音楽イベントがさかんに開かれた頃には、作曲家や作品のことなどろくにわからず、適当に演奏されて、もちろん、録音などされずにそのまま闇に葬られてしまった、とんでもない演奏が無数にあったんじゃないかと思う。
「まじめにやったところで、きれいな音にはならないし、デタラメやったってわかりゃしない」
というやっつけ仕事。
で、「バッハをチェンバロで弾くのは冒涜だ、ピアノで弾きなさい」と評論家が演奏家に真顔でアドヴァイスする、みたいなことが起きてしまうのは、中途半端に古楽や現代音楽が広まっていく過渡期の荒れた環境が背景なのだろうと思うのです。
「古楽や現代音楽なんかに関わっていると、君も、あのデタラメな連中の仲間だと思われてしまうよ、それでいいの?」という善意の助言です。
(他の領域でも、こういうことってありがちでしょう?)
そして古楽の人たちが「正統性、オーセンティック」という旗印でガチガチにきまじめな理論武装に突き進んだり、現代音楽で機械のように正確な演奏が画期的なものとして歓迎されたのは、荒れた環境を立て直すために、必要な手続きだったのかもしれない。
ポリーニは、今聴くとつまらんかもしれないけれど、だって、だれもその譜面を「正しく」弾いたらどんな音がするか、聴いたことがなかったんだから。
わかってしまえば簡単なことで、捨て石みたいに乗り越えられちゃったりするものだけれど、その言われ方は、ちょっと可愛そうな気がするなあ。マジでデタラメな人たちをどうにかしようと思ったら、あれくらいやらないとダメだったんですよ。
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しっちゃかめっちゃかになった先で思いもよらぬところへスコンと抜け出て、新しい地平が開ける体験をすることがある。それはそうです。
で、そこから「苦悩を経て勝利へ」の天才の物語を紡ぐと、いちおう多くの人に伝わるけれど、そうするとこれを逆手に取って、形だけマネする詐欺師が出てくる。
じゃあ、結果として到達されるはずの澄み切った地平、おいしい成果だけをお金と引き替えにご提供する観光バスめいた早周りのお手軽サービスがあればいいかというと、今度は、ラクチンでお気楽に差し出されるものしか受け付けないひ弱な人間ばかりになりそうで、これもまた困る。
これで悩みは一発解決、とはならんもんです。詐欺師やお気楽なズルも多少混じるのを認めつつ、それぞれがちょっとずつ要る、というか、在るものなのよ、世の中には。
だからといって、あらゆるものが在るようにして在る世界を悟るに至る絶対精神、精神の弁証法と言い出すと、これはこれで神がかった話になって、別の副作用が出たりするから、ほんとに人間というのは始末に負えない。
踊れ喜べ、幸いなる魂よ。