「物わかりのいいおじさん」枠:ベイトソンを援用してものを言うのは、それほど目新しいことなのだろうかと疑問が残るミュージッキング

ミュージッキング―音楽は“行為”である

ミュージッキング―音楽は“行為”である

原書が出て以来、「ミュージッキング」というワードに飛びついて、本書に言及しているのはもっぱらポピュラー音楽関係の人たちだったし、

ようやく出た邦訳は音楽人類学系の人が手がけて、「音楽は“行為”である」の副題がついている。

ということで、いかにも「音楽文化の現在形もしくは未来形」を追いかけている人々に刺激を与えるキーワードという心象を与える「ミュージッキング」だが、実はクラシック・コンサートが論じられているのだということを、円堂都司昭の本で知った。

ソーシャル化する音楽 「聴取」から「遊び」へ

ソーシャル化する音楽 「聴取」から「遊び」へ

ほんま、もう、こういう風にイメージ先行、ことば遊び先行でワイワイやるのは、いいかげんにして欲しいわ。

  • (1) 原書に「音楽は“行為”である」などという副題はない。原書のタイトルは、Musicking: Meaning of Performing and Listening.
  • (2) 名詞を動詞化しただけで何かが劇的に変化するわけじゃない。(だいいち、共通の語幹からシステマチックに名詞・動詞・形容詞を生成するのは欧米語ではごく普通のことに過ぎない。それを言うなら、作品 work はそのまま動詞になるし、そういう事態をことさら物珍しげに言うのは、単に語学音痴なだけなのでは、との疑念がある。)
  • (3) それに、「西洋クラシック音楽は、本来「動詞的」な行為であるはずの音楽をテクスト中心主義でゆがめている」という論法でクラシック音楽(論)にケチを付けるのは、20世紀の文化人類学やポピュラー音楽の議論で聞き飽きた。「music の動詞化」が流行る前には、musics と複数形にする遊びもあったよね。music という言葉に囚われ過ぎだと思います。そしてこの種の議論は、いつまで経っても仮想敵をアップデートしないところが、「憲法九条」と「反核」を旗印にする平和主義と似ています。
  • (4) 本書の著者はベイトソンに刺激を受けたらしい。で、どのあたりがベイトソンかというと、行為の意味(を読み解く)というところであるらしい。つまり、(a) 「演奏」や「聴取」という行為は何かを意味している、(b) それは、非言語的ではあるが、コミュニケーションである、という枠組みで本書は書かれているようだ。言語的・書かれたもの的コミュニケーションは「近代に汚染されている」という共同体主義の意味でのコミュニズムが言外の背景にあって、著者は、共同体の非言語コミュニケーションを素朴に信じ、微塵も疑っていないように見える。だからああいう副題になっているようだ。
  • (5) 結局のところ、「憲法九条」と「反核」の平和主義、みたいなイデオロギーを取り去ると、この本は、都市のエスノロジーの一種。クラシック・コンサートという儀礼のエスノグラフィーをやってみた、というだけのことであるらしい。
  • (6) しかしそうなると、エスノグラフィーに「この儀礼にはいかにも滅びつつあることを示す兆候がある」みたいな記述をまぎれこませるのは、リサーチャーとして妥当なのか否か、というところが問題になると思う。俗受けしそうな診断を下す文明論に、気の利いたキーワードをかぶせるのは、いかにもありがち。

なんか、発想も道具立ても、いかにも1927年生まれのおじいちゃんっぽく、古めかしい気がする。著者は作曲家なんだってね。

ニコラス・クックやチャールズ・ローゼンのときもそうだったけど、英語でものを書く中高年(本人は相当骨っぽく、頑固だったりファンキーだったりしていそう)を、物わかりのいいおじさんのイメージで売り出すのは、どうにも見え透いて胡散臭い。演奏家でいうと、シフやルプーやブレスラーがこの種の「いいおじさん」枠だよね。

あんたら、こういう風に「いいおじさん」を接待しておけば、グローバルにスタンダードな世の中を意識の高い風に生き延びられると目算してるやろ(笑)。

リヒャルト・シュトラウス (作曲家 人と作品)

リヒャルト・シュトラウス (作曲家 人と作品)

往生際の悪い感じにリヒャルト・シュトラウスの最晩年と格闘する岡田暁生のジタバタしないことによるジタバタ感(それは彼の言う「非政治的であることの政治性」と対応する)のほうが、なんぼか味わい深いと思うで。