敗因の分析

[色々工夫をしていても全体像がピタリと決まるに至らない演奏を「いい」と言ってはダメだろう。予断や思惑、奏者への思い入れやこれまでの実績で、今、目の前に起きている物事への判断がブレてはいかん。……といつも言っているのは誰だっけ?

と同時に、過去6回でこれだけのことをやったとなると、20数曲集中して聴いてきたこちらの耳も変わってくるし、それにふさわしい7回目はこうであってほしい、という期待も生まれる。初めてのグラウンドで芝の状態なんかを確かめながらプレイする一次予選の初戦と、全世界中継されるワールドカップ決勝では戦い方は違ってくる。それだけの「役者」かどうか、という目で見られてしまうのはしょうがないし、そういう気合いの入った視線を注がないのは、かえって失礼というものだろう。「思ったよりいいんじゃない」と軽く言える段階はもうとっくに過ぎてると思う。]

楽譜とピアノとピアニストである私、演奏に臨む装備を純粋にこの3つに絞ってしまったことが、苦しい消耗戦の主因ではないだろうか。

もしかするとこれまでの6回と基本装備は同じだったのかもしれないけれど、改めて考えてみると、ベートーヴェンの主要なソナタは後世の音楽家たちが徹底的に研究して、ピアノ音楽の標準的なボキャブラリーになっているので、筋の良いやり方でピアノを学んでいれば、特別な勉強をしなくても、譜面を見たらどこをどう弾いたらいいのか自ずとわかる状態になっているのかもしれない。標準的な語彙だけを使ってかかれた文章とみなして読み進めることができるわけですね。

現代のピアニストが普通にベートーヴェンを弾ける=読めるのは、ドイツ語に日本語のような江戸と明治の間の言語の断絶みたいなものがないから(実際にはまったく同じではないのだけれども)現代の標準ドイツ語を読み書きできる人がルター訳の聖書やゲーテをさほど苦労なく読むことができるのと、似ているかもしれませんね。

でも、ときには現代との落差が凝縮しているような作品もある。

ハンマークラヴィアは特にそうで、オーケストラ曲やオペラや宗教曲や室内楽を広範に書いたあとで、色々なノウハウをつぎ込んで書いているから、普通のピアノの読み方だけで譜面に向かっても、どこがどうなっているのか、たどれなくて立ち往生しそうになる箇所が頻出するのだと思います。

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実は「もうひとつのB-dur」にもちょっと似た事情があって、今回聴きながら思いましたが、たぶんこの曲は、同じ頃集中的に取り組んでいた弦楽四重奏(op.18)の経験が色濃くにじんでいるんじゃないでしょうか。

厳密な4声で書く、というような露骨なことはしていなくて、しばしばかなり自由にピアニスティックな書法と発想へ横滑りしていくし、メロディーの下の和音は、バスをオクターヴで重複したり、平気で音を4つくらい重ねてあったりするのだけれども、要所要所の発想は4声体が透けて見えるようになっているし、内声が第2ヴァイオリンやヴィオラのようによく動く。そして第4楽章は、譜面が明白に四声体で書いてあるし、途中でフガートみたいなところも出てきますよね。

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そういう音楽なのだということを意識せずに弾くとどうなるかというと、直接聞いてわかる現象としては、声部を分離せずにひとつの塊として響かせようとしてしまうことになって、弾き間違いではないのだけれども、なんだか抜けが悪く、梅雨で響きが湿ったようなどんより感が全体を覆うことになってしまう。

そうして、とくにハンマークラヴィアでは致命的な問題になると思うのですが、複数の声・人・楽器のアンサンブルというのは、今実際に鳴っている音が少ないときでも、その場に必ず複数の人間がいる。ベートーヴェンの14番の弦楽四重奏曲だったら、第1ヴァイオリンが一人で弾き始めるのを他の3人がじっと聴いて待ち構えている。そしてそんな風に、実際に鳴っている音の周囲の空間が「生きている」ことが音楽を大きくするんだと思います。

オーケストラであれば、ソロに注視して待ち構えている無音の複数の共演者の数がさらに多くなるわけですね。交響曲7番だったら、序奏でオーボエはたった一人で曲の基準線になるA-durの和音の輪郭を全員に向けて示さなければいけないし、主部に入るところは、そのあと途方もない勢いで爆走することになる8分の6拍子のリズムマシンをフルートがたった一人でスタートさせなければいけない。第九のバスやテノールは、百人以上の群衆(イメージとしては全人類)に向けてたった一人で語りかけている感じがする。

ハンマークラヴィアでどんどん書法が切り替わっていくのは、現実にはありえないことだけれども、作曲者の脳内で彼が知っているありとあらゆる編成・ジャンルの音楽が潜在的なメンバーとして常にスタンバイしていて、入れ替わり立ち替わり演奏しているイメージじゃないかと思うんです。

交響曲のトゥッティみたいに太い柱を立てたかと思えば、フェルマータのあとは弦楽四重奏になって、ひとしきり進んだところで、今度はミサかカンタータみたいにバス→テノール→アルトの声楽的な通模倣になったりする。

第3楽章の深く張り詰めた空気は、作曲者の脳内にほとんど「全宇宙」みたいに巨大な複数が潜在的にあるにもかかわらず、それだけの巨大な空間を前提にして、敢えて「私」がたったひとりでその胸の内を語るわけだから、巨大さとちっぽけさの落差が無限大、ということだと思うんですよ。

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いきなりそんなことは無理なのが当たり前だし、先の見えない、出口の見えない長い旅路で、あっちこっちへそこがどこなのか完全に路頭に迷う感じに振り回されていた印象でしたが、それでも常に何かをやろうとする姿勢を崩さなかったのは善戦だと思う。ただの無謀とは違う本物のガッツがある。

それに終楽章のフーガで、テーマを拡大したり縮小したり反転したりするのにつれて、時間と空間が伸びたり縮んだり歪んだりするような感じになったのは、ユニークで面白いと思いました。響きを会場いっぱいに広げて、グヮっと空間を大きく揺らすような瞬間を作り出すのは、小菅優が以前から得意とする必殺技ですよね。それがこういう風にここで炸裂するとは思わなかった。

30番、31番は、もっと普通の意味でピアニスティックに書いてある曲だから、また違った感じになるんじゃないでしょうか。