顔の表情で内面を表現する

演技術の日本近代

演技術の日本近代

……という演技術の発生を九代目団十郎(を評価する新しい観客たち)のあたりからたどる等々、本書は演技の日本的「近代化」のベーシックなところを読みやすくまとめている。(演劇改良についてのカルスタだけど、神山彰先生の影響下なので口先だけにならずに済んでいる、という認識でいいのでしょうか。)

洋行して西洋の演劇を視察・研究した人たちは、語学堪能であったとしても芝居の台詞をすべて把握できるほどであったとは思われず、言葉を十分にキャッチできなかったからなおさら、言葉がわからなくても内面が伝わってくるような「見せ方」にこそ学ぶべき西洋演劇の真髄あり、と思い込んじゃったんじゃないか、とか、気になる指摘が出てきます。

合唱の表情はこのあたりと関わりがありそうですよね。それは言っちゃだめなの。そんなことないでしょう。

(坪内逍遙は、そんな洋行帰りの、見せ方重視の演劇改良が議論された時代に「朗読術」に着目した人だったと整理されていますが、実はこの本を読みながら私が一番気になったのは、昨今の声優に至る「声の芝居」の展開なのですが……。

アマチュアの皆さんの合唱は、どこまでが自覚的にコントロールされていて、どこからがそうでないのか、そもそも、そうした線引きをすること自体が不純だという立場すらあり得て、何重にも話が込み入ってしまいそうですが、アニメの声優さんたちは、プロとして声色のわざを磨いていらっしゃるはずなので、そのことに受け手が言及するのはタブーじゃないですよね。安全に触ることのできるところから一歩ずつ駒を進めていくのが、この件ではいいのかもしれない。)

[不道徳な美、デカダンについては強力な擁護論とそれへの反論ががっつり構築されているのに、不快な道徳について、賛否どちらの立場を取るにしても、無防備のまま、というのはマズいですよね。]

その場しのぎの男たち [DVD]

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伊東四朗の「間」はすごい、と三谷幸喜がしきりに言うのはこの作品に出てもらった経験があるからなのか? コメンタリーで、佐藤B作が「やっぱり早稲田で演劇を学んだ基礎がこういうところに出るよな」と自分の長台詞をみながら、マジメとも冗談ともつかないことを言うのが面白い。